- 影 -

 カンバスに向かって筆を取る彼を、少し離れて見ている。真剣な目。それが何だか嬉しくて、胸がほかほかして、黙って見ていた。




 ───またあの夢見ちゃった…
 むくりと起き上がって壁の『夜』を見る。おはようございます。絵に向かって頭を下げた。ひゃ、と笑いが洩れた。
 ブルーな日々も去って身体が軽い。関谷さんを訪ねようと決心したのは昨夜だった。初めて≪睡≫へ行ったのは木曜日、バイトが早く退ける日みたいだったから、上がる頃に行って一言、マスターが待っている事だけ伝えれば邪魔にならないだろう…そう考えた。
 地下鉄駅の階段を降りる時、少し怖い。駆けて来た私は入口で一瞬足を止める。爪先から吸い込まれるような気がして手摺に手を置いて一呼吸。一歩を踏み出す時、いつも心臓がきゅっとなる。トントントンとリズムを付けて降りながら、学校に急いで行ったってしょうがないのに…と思った。
 一日、そわそわしていた。食欲もなくてお弁当を半分残した。頭の中で何度も言うべき事を整理した。必要な事を手短に、だけど茜さん親子の気持ちがちゃんと伝わるように。
 そうして夕刻、緊張気味に関谷さんの居る書店の前に立った。深呼吸して三階へ。隠れるつもりはなかったが、書架の陰から窺った。彼はいつものように、紺のエプロンを掛けてレジの脇に居た。同じエプロンの女性と何か話して笑っている。…遠い。ちくりと胸が痛かった。見るともなしに目の前の本を手に取ってぱらぱらめくる。何も目に入って来なかった。しばらく待つと、彼は腕時計を見てレジの人達に軽く会釈した。上がるのだろう。彼が従業員用の扉に手を掛けた時、近付いて「関谷さん」と呼んだ。
 振り向いた彼は私に気付くと「こんにちは」とにっこりした。私はぺこりと頭を下げた。
「あの、今、ちょっと、いいですか」
「うん」
「先週、≪睡≫に行ったんです」
 その途端、彼は笑って細めていた目を見開いた。微笑は消えて、表れたのは───戸惑い。あの時と同じ、月明かりの中と───同じ眼差しに私も言葉を失った。
「…うん。それで?」
「…それで…、あの、マスターが、関谷さんを、待ってます」
 手短すぎだ。
「……」
「いえ、あの、いろいろお話して…」
 心臓爆発寸前。言いながら頭がどんどん下がってゆく。「千鶴ちゃん」と低く呼ばれてやっと顔を上げた。
「下の通用口で待ってくれる? ちゃんと聞きたいから」
 はい、の声も出ずに深く頷いた。
 通用口で待っていると程なく関谷さんが降りてきた。通りを見遣って「さてどうしようか」と言う。
「いえ、すぐ済みますから、ここで」
「…じゃあ歩きながら話そうか」と駅に向かって近道の裏通りを歩き出した。
「≪睡≫のマスターが待ってるって…どうして?」
「…一志さん…あ、弟さんの方…が、帰って来たみたいだ、って…」
 歩きながらのせいか、言葉がするっと出てきた。上手く言おうと構えるより、素直に言えた。言うつもりのなかった事まで。
「突然、事故で亡くなって…」
「…うん」
「…あんまり突然で実感もなかったんじゃないかしら。今でもそうというわけじゃないけど…とてもつらかったと思う」
「……」
「お話を聞くと、何となく関谷さんに似ていて、それもあるんだと思います」
「…僕は…」
 彼は歩みを止めた。振り向いた顔は困惑に眉を寄せて、何か痛そうだった。
「彼の弟さんとは違うよ」
「それは…」
 目の前を一瞬過ぎった、長い長い廊下───身体が小さく震えだした。
「判ってます。だけど≪かずしさん≫に」
「僕には関係ない!」
 鋭い声だった。冷たい廊下が波のように揺らいで私は一歩後ずさった。違う、私はちゃんと…立っている。
「そんなのみんな判ってます、≪かず≫の字だって違うじゃないですか、似ているからとかそんなんじゃないです。似てるけどでも」
 私達は睨み合っていた。私は早口でまくしたてた。
「マスターも茜さんも寂しいんです、寂しい時に誰かにそばに居て欲しいのはいけないんですか」
「……」
「かずしさんだから会えて嬉しいんです。でもそれはかずしさんじゃない、同じ名前だけど、だからじゃないんです…。あれ、何言ってんだろ…」
 思わず洩らした笑いも震えていた。あんなに考えたのに、結局ぐちゃぐちゃだ。私は拳で目を擦った。泣いてはいないけれど、さっきから長い廊下の景色が現れては消える。目を瞬くと、関谷さんが背を丸めて私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。…すみません」
「…いや」
 彼は傍らの電信柱に背を凭れて「ごめん」と俯いた。
「今のはやつあたりだ」
 そして首に巻いたグレーのマフラーに顔を半分埋めた。…やつあたり? 私は、目を閉じて黙り込む彼をじっと見ていた。やがて彼は肩を落として深く息を吐いた。マフラーから顔を上げて、目を閉じたまま言う。
「…あれから、描こうとすると『午睡』が目に浮かぶ。何も描けない」
 ───あれから…二ヶ月近くになる。
 彼はフッと微かに笑った。
「守屋さんが僕に目をかけてくれるのも、旧友と同じ名前だからなのか、なんて考えたりして」
「……」
 何も言えなかった。関谷さんは「ん」と唇を噛んで一つ頷き、ぱちっと目を開けた。
「ありがとう。今から≪睡≫へ行くよ」
「……」
「もう一度『午睡』を見る。そうしないと」
 私を見る黒い瞳には、守屋画廊で会った時の、吸い込まれそうな強い力が戻っていた。
「僕の中の『午睡』を破れない」
 その瞳から目をそらせなかった。黙って頷いた。
 彼は腕時計を確かめて「もし良かったら一緒に来てくれないかな」と、もういつもの微笑で言った。
「もしまた僕がヘコんだら…、≪かず≫の字が違うって言って」
 左頬のほくろが涙の粒に見えるような笑顔。
 私は自分の言葉を噛みしめて確かめるように「はい」と返事をした。




 地下への階段の手前で足を止める。端に寄って手摺に掴まった。きゅっと縮む心臓。踏み出す足が私の意思を無視して跳ぼうとするのではないかとさえ思う。足元を見ながら階段を降りた。降りきった所で関谷さんが「高い所、苦手?」と訊ねた。私は苦笑で頷いた。
「小さい時からダメなんです」
「うん、すごく緊張してたね」
 彼はクスと笑った。───電車に乗ってぽつりぽつり、様々な話をした。互いの学校の事や絵の話。関谷さんも、高校生の時は美術部に所属していたのだという。「油絵もやりましたか」と訊ねたが、「少しやったけど上手く扱えなかった」との事だった。
「『夜』を机の前に飾ったら二学期の成績が上がったんですよ」
「ええ?」
「理系は苦手なんだけど、落ち着いて勉強出来て」
「へえ…」
 関谷さんは俯いてクククと笑っていた。照れているのが判って、私も照れてしまった。こんなふうに話したいとずっと思っていた。茜さん親子もきっとそうだ。
 ───会えて嬉しいんです。
 そんな言葉を、考えてはいなかった。咄嗟に口をついて出て言葉。
 ≪睡≫では絵を見ている間、お客さんには話しかけない。関谷さんは簡単に挨拶をして水割りを頼んだ後、カウンター席で頬杖を突いてじっと『午睡』を見つめていた。マスターは黙っている。関谷さんの隣に座る私からは背中が見えるばかりだった。多分、あの厳しい目をしているのだろう。茜さんはカウンターの端の席に座るお客さんと時々言葉を交わしていた。
 どのくらいそうしていたのか、ふいに関谷さんがマスターに訊ねた。
「この絵について弟さんから何か聞いていますか」
「いいえ。あれは内にこもる質だったから、何も」
「そうですか…」小さく洩らした溜息が聞こえた。
「守屋さんなら何か知っているかもしれませんよ。一志と同じ画学生でしたから」
「……」頭が小さく揺れた。頷いたらしかった。
 誰にも話せない思い───彼はきっと画面を通して自分と対話していた。
「…それなら、この絵は一志さんの言葉なんですね」
 ぽつりと言った私を二人は振り返った。マスターが「ええ」と微笑んだ。
「私もそう思って、二十五年、この絵を見て来ました」




 ≪睡≫を出てからも関谷さんは黙り込んでいた。私も話しかける事が出来ずに黙って斜め後ろを歩いた。神社の前で彼は立ち止まり、小さく苦笑して「いいかな」と言った。お参りをするのだろう…「はい」と答えた。
 手を合わせて目を伏せた横顔を盗み見た。彼の中の『午睡』は今、どんな形を取っているのだろう。一礼して背筋を伸ばした彼は私に目で≪行こう≫と促した。さくさくと砂利を踏む音。
「…こういう、古くて大きな木のある所は良いね。町中でも空気が違う…」
 はいと答えながら、『夜』を思い出した。青く透明な空気。夜は冷たくなってゆく程、硬く、澄んでゆくようだ。夜の結晶。
 地下鉄の駅の階段に着くと関谷さんはすっと私の前に出て、端の手摺に手を載せて降り始めた。階段の下が見えない。その肩を見下ろして続きながら───ぐいぐいと、心が引き寄せられてゆく自分を感じていた。
 夢の人と現実の関谷さんとは違う人なのに、影が重なってゆく。
 とてもよく似た空気を持つ人。
 現実の関谷さんは頬に涙のようなほくろがあって、油絵は描かず、こんなふうにさりげなく優しく、それでいて時折怖い目をする。やつあたりもして、落ち込んだ時には神社にお参りをする。
 それでも…だから?
 同じ名前だけど、だからじゃないんです。
 混乱したまま口走った言葉を思い出していた。判らないまま、現実の人に惹きつけられてゆく。




 強い風が私達の髪をなぶっていた。コンクリートの冷たい床に両手を突いて座り込んでいると身体が芯まで冷えてゆく。青紫の空の低い所に太陽がある。時間は無意味だった。私達にはもう…時間は要らない。
 何も要らない。
 そう思って彼を見た。私と同じように両手を突いて俯いていた彼に呼びかけた。
 顔を上げた彼の苦痛に満ちた瞳から、涙がひとしずく、こぼれ落ちた。




「…あ…」
 声を出して目覚めている事を確かめた。まだ心臓がどきどきしている───起き上がって『夜』に目を遣った。




 美術部に活気が戻った。来年度の部長を引き継いでから、一年生達が出て来るようになったのだ。二年生は相変わらず私一人だったけれど。顧問の萩原先生も嬉しそうだ。
 ただ───何となく、筆を取る気になれない。
 スケッチブックを開いて、描くふりをしている。彼女たちのお喋りを聞きながら、部がちゃんと活動しているのは嬉しいのだけど。時々、涼子がふらりとやってきておやつをつまんでいく。
「千鶴、背中丸まってる」
「あ、はい」
 背筋を伸ばすと「顔の向きがちょっと変わった」と涼子が笑う。背もたれのない椅子に座る私の前に、皆が弧の形に並んで、イーゼルに向かっている。今日の人物デッサンのモデルは私だ。おやつを食べに顔を出した涼子まで参加していた。一年生の真剣な顔が可愛い。笑いそうになるのを堪えた。
 さらさらと紙の上を鉛筆が走る音。それがなぜだか懐かしい。
 ヒーターの温風が流れてくる。頬が火照っているのが自分で判る。眠くなりそう…
「こら、寝るな」
 皆が笑った。私も「だって暖かくて眠くなるんだもの」と笑った。重いまぶたを開くと、目の前のイーゼルの向こうで笑う一年生の姿に、影が重なった。
 ───関谷さんが笑っている。
 見えていないのに、見えたような気がする景色。
 俯きかけるとまた涼子に注意された。だって見えてしまいそうなんだもの───とは言えなかった。  

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