- 花 -

 期末試験の憂鬱から解放されて、試験休みが過ぎて、あっけなく冬休みが終わった。試験の結果は私にしてみれば上々で、頑張れた事が嬉しかった。机の前の『夜』の御利益かも。頬が緩む。勉強に疲れるたびに『夜』を見上げて透き通った青に浸っていたのだ。不思議と気持ちが落ち着いて、勉強に集中する事が出来た。
 けれどあれから関谷さんとは会っていない。
 試験に休みと理由はあったが、私はまた彼の居る書店を避けていたのだ。
「顔を合わせるなんて、考えるだけで心臓が爆発しそう」
「心臓が悪いんじゃないのか。一度検査してもらったら?」
 野本先生は真顔で言った───いつのまに。私は「うわあ」と胸を押さえた。図書室の貸出カウンター越しに、背中を丸めて涼子と話していた時だった。先生も細長い身体を半分に折って私の真似をしている。
「心臓『に』悪いんです。…どこから聞いてたんですか」
「顔を合わせるなんて、ってとこ。何、俺の事?」
「違います」
「だって心臓押さえてる…あ、中川さん、この前頼んだ本、入りましたか」
「入ってますよ」と抱えた本をカウンターに置く。鉱物図鑑と妖怪図鑑と分厚い落語の本だった。彼女は「野本先生の謎の行動は心臓に悪いわよねえ」とクスクス笑った。
「いい男に謎は付き物ですよ」
「先生には謎の憑き物が憑いてるんですか」
「ひどいなあ」
 野本先生はフと鼻を鳴らして苦笑した。子供っぽい笑い方だ。照れてるみたい。涼子を見ると、私を横目で見てニヤと笑った。「どうも」と本を手に先生が出てゆく。中川さんが司書室に戻ると涼子はカウンターに腕を載せて組み、顔を近づけ声をひそめた。
「野本先生だってこうやって熱心に通ってるんだよ」
「あ、やっぱり?」
 私達はふふっと笑った。
「千鶴も見習ったら」
「…私は…」
 赤面するのが自分で判って目をそらした。
「…単なる、ファンの一人だもん」
「関谷さんのファンなんて千鶴一人だよ」と言われて「うっ」とカウンターに突っ伏した。
 ───私は画家の関谷さんのファンで、作品が好きなんだ。
 そう考えるようにした。あれからおかしな夢は一度だけ。カンバスに向かって筆を取る彼を、少し離れて見ている。真剣な目。それが何だか嬉しくて、胸がほかほかして、黙って見ていた。
 目が覚めてから不思議だった。関谷さんは版画家なのに。油絵もやるのか訊いてみたいと思ったけれど、訪ねる勇気はなかった。




 冷たい廊下を這って、奧の部屋へ向かった。あの人はきっとそこに居る。枯れ枝のように細い脚にはもう歩く力は無かった。ここはとても寒い。氷のように冷たい廊下。ドアは果てしなく遠く感じられた。
 あのあたたかな胸。
 やすらぎ。
 会いたかった。
 腕に、膝に、力を入れて這いずってドアの前にたどり着いた。壁に手を掛けて起き上がり、床に座り込んだままノブを回した。息が切れる。…鍵が、かかっていた。
 呼びかけようとするのだけど息が詰まって声が出ない。やっとここまで来れたのに───私は必死で声を絞り出した。




 自分の声で目を覚ました。カーテンを引いた窓が暗い。まだ夜が明けてないんだ…誰にも聞かれなかったろうか。
 夢から覚めたのに、私は枕に顔を伏せて泣いた。
 会いたかった。
 ───会えなかった。悲しくてたまらなかった。




 部活をさぼって───どうせ誰も出て来ない───ぼんやりと歩く。気が付けばあの書店の前に居た。ビルの壁に取り付けられた看板を見上げると、通りを行き交う車の音がやけに大きく聞こえてきた。何をやっているんだろう。
 夢の人と現実の関谷さんとは違う人なのに。
 私はうなだれて駅の方へと歩いた。誰かと話したい。友達と、好きな漫画や流行の歌の話をして笑い転げている間にも、私はそう思っていた。
 誰かと話したい。
 だけど誰にも話せない。
 そんな時に私はいつも絵筆を取っていたように思う。そしてそんな時はいつも何かが空気のように見えない姿で周囲に満ち、画面を通じて言葉を交わし、私は私と対話するのだった。
 だけどそれは私。───誰かと、話したい。
 絵の話をしたかった。地下鉄の駅で路線図を見上げて、ふと≪睡≫に行ってみようかと思った。『午睡』をただ見るだけでいい。絵のある空気に触れたかった。私は切符を買って改札を通った。
 ≪睡≫の扉を開くと茜さんは「あ、」と笑顔を見せた。
「いらっしゃい。千鶴ちゃんだったよね? どうぞ座って」
 お冷やをカウンターに置き、「また来てくれて嬉しい」とニコニコした。お父さん───マスターと呼ぶべきか、彼もおっとりと「何にします」と訊ねた。私はココアを注文した。
 目が『午睡』に吸い寄せられる。
 眩しい桜の窓。
 額に触れた唇が≪こういう意味≫と動いたのを思い出して胸が詰まった。それは何とあたたかく、優しく、愛しく───せつないのだろう。満開に咲き誇り、風に散る思い。
 眩しくて目を細め、暗い部屋を見遣った。
 隅の椅子に斜めに凭れる女性。闇に全てを委ね、生まれたままの姿で眠る。
 その傍らのチェストの上には花を活けた古い籐カゴと、小さな写真立てが置かれていた。この前来た時はなかったのに…。私は席を立って近付き、写真を覗き込んだ。
「それ、叔父よ」
 線の細い人だ。まだ若い、二十代半ばに見えた。まっすぐにこちらを見る黒い瞳。固く結んだ唇。細い顎。そのどれもが意志的で、険しい。無論、頬にほくろはなかった───私が関谷さんに似た人を勝手に想像していたのだ。愚かさを恥じた。
「…関…」と言いかけて、茜さん親子も≪関谷≫である事に気が付いた。「…一志さんは、どんな方だったんですか」
 かずしさん、と口にするのが恥ずかしかった。自分の口が≪和≫の字で言っている。
「その写真は格好つけているよ」
 マスターが小さく笑った。茜さんは「アルバム見る?」と言ってもう店の奧の階段に向かっている。はいと頷くと彼女はとんとんと軽やかに階段を上って行った。
 古いアルバムの関谷一志は、飾られたポートレートの印象を変えた。
「…あ、これ茜さん? 可愛い」
「でしょ」
 幼い茜さんを膝に載せて笑う人。目尻の小さな笑い皺。優しい微笑。
「叔父さんっていうか、お兄さんって感じ。優しかったよ」
「茜は幼稚園の時、『叔父さんと結婚する』って言ってた。一志はその頃学生だったから『卒業するまで待って』って言ってなだめてた」
「覚えてないってば」
 あははと笑う茜さん親子に、ここに来るまで感じていた、ちくちくした痛みが取れてゆく。思い出が優しい。旅先のスナップを眺めて話を聞いた。兄であるマスターに似たのだろう、どちらかといえば無口で穏やかな人だったという。そんなところは関谷さんに似ている───また、そんなふうに考えてしまう。
 その人が、どうして…
「あの…一志さんはどうして亡くなられたんですか…?」
 グラスを拭くマスターの手がキュと止まった。目を伏せたまま「事故でね」と答えてグラスを置く。「ちょっと失礼」とぽつりと言って、マスターは二階への階段を上っていった。その後ろ姿と私とを交互に見遣って茜さんが困ったように苦笑いした。私は膝に手を置いて頭を下げた。
「…すみません…。私が変な事訊いたから…」
「ううん。もう昔の事だもの、ただ…」と茜さんは声を落とした。
「私ね、お葬式の時、叔父と最後のお別れをしていないのよ」
 胸をぎゅうっと絞られたみたいだった。どきどきする───嫌、聞きたくない───でも知りたい───
「叔父の遺体にすっぽり布が掛けられて、顔を見れなかった。何の事故かも教えてもらえなかった。父は私に言えなかったのね」
 ふいに身体がふわりと浮いた───足元の床が消えて落ちた───錯覚。ぐらぐらと眩暈がした。目の前が暗くなって───茜さんの声が遠く近くゆらゆらと聞こえる。
「…きっと事故でひどく傷ついたのね…」
 閉じたまぶたに映る景色がぐるぐると回る。木の枝の模様の黒い線。千鶴ちゃん、どうしたの───お父さん、大変、お父さん───黒いひび割れの模様は粉々に砕け、現れた闇に意識が落ちていった。




 …怖い?
 本当は怖かった。嘘がつけなくて黙っていた。
 閉じたまぶたをなぞる指先が頬へ、首筋へと降りてゆく。額に柔らかなものが触れた刹那、胸の奧にぽっと小さな明かりが一つ灯った。
 そっと目を開けると、黒い瞳が私の目を覗き込んでいた。戸惑いを隠せない表情が窓からの月明かりに青白く浮かぶ。私は肩に置かれた大きな手に自分の手を載せて目を閉じた。
 闇に、身を預ける。
 ぽつり、ぽつりと、一つずつ、蛍のような明かりが灯っていった。それはまぶたに、耳に、頬に、唇に、その人がくちづけるたびに、闇に蕾を弾く花だった。
 花が開いてゆく。春の訪れの喜びに打ち震え、変身の予感に怯えながら、一つ、また一つ───まるで桜。
 幸福に酔いしれて吐息を洩らすと優しく名前を呼ばれた。私も応えた…その人の名を呼んで。
 私の身体は桜の木になって、髪に、腕に、指先に、次々と花を咲かせてゆく。そうして私は、痛みと共に大地と結ばれていた。




 まぶたを開けると涙が耳の方へ転がり落ちた。夢の余韻か、身体の芯が痺れている。───何となく、覚えている。茜さんと話していて倒れた事、マスターに支えられて二階へ上がった事、茜さんが布団に寝かせてくれた事。…ここは、茜さんの部屋だ。
 お腹が痛い。鈍い痛み。のそりと起きてお手洗いを借りた。流れ落ちた血。私はまた貧血を起こして、心配して様子を見に来た茜さんのお世話になった。詫びる声も上手く出なかった。
「女の子だもの、仕方ないわよ。それで今日は具合が悪かったのね。そんな時にあんな話したから…。ごめんね」
 茜さんは再び私を寝かしつけて、もつれた私の髪を指で梳いて微笑んだ。私は首を横に振るので精一杯だった。涙が溢れて止まらない。あまりに苦しくて吐き出した───「最後の別れも出来なかったなんて…残される人も、逝く人も…寂しすぎる」。茜さんの膝に顔を伏せて泣いた。背中をさすられて落ち着いた頃、もらった鎮痛剤をようやく飲んで、しばらくうつらうつらとした。
 それからどのくらい経ったのか、階下の賑わいが伝わってきて私は起きた。すっかり日が暮れている。布団を畳んで上着を抱え、階段を降りた。≪睡≫は夜の顔になっていて、仕事帰りと思しき人が数人、グラスを手にお喋りをしていた。「もういいの?」と茜さん。ご迷惑おかけしました、と詫びると、マスターが優しく言った。
「またいらっしゃい。待ってるから」
「お父さん、千鶴ちゃんを駅まで送ってく」
「ああ、気を付けて」
 一人で大丈夫と断ったが、茜さんは「いいから」とコートをはおって私の背を押した。私を気遣ってか、ゆっくりと歩く。
「…本当に、また遊びに来てね。今度は和志君も一緒に」
「えっ」
 どきん。
「和志君、どうしてる? 元気?」
「…さあ…。知りません…」
 茜さんは目を丸くした。
「千鶴ちゃんは、和志君とつきあってるんじゃないの?」
「…違います!」叫びそうになってしまった。「そんなんじゃないです。か…」
 かずしさんと言いそうになった───夢でそうしたように。
「…関谷さんの、絵のファンなんです。私が、一方的に、憧れてるだけです…」
 語尾が萎んだ。恥ずかしくて身体が縮んでしまいそうだった。茜さんは「そっか」と私の肩を抱いた。
「この前ね、二人が来てくれて、…あの後に父がね、『一志が帰って来たみたいだ』って洩らした事があったの。それっきりで、なーんにも言わないけど、絵の横に写真置いたりして。あれ、和志君が来るの待ってるのよ」
「……」
「雰囲気も叔父に似てるしね」と彼女はクスと笑った。「偶然なのは判ってるけど、私達はただ、叔父の絵の話が出来るのが嬉しいのよ」
「…はい」
「二十五年経った今でも、叔父を思ってくれる人が居て嬉しい」
 そう言って茜さんは私の肩を抱く手にぎゅっと力を込めた。
 駅に着いて、彼女は私の手にケーキの箱を持たせて、
「和志君に会ったら誘ってみてね。千鶴ちゃん一人でも大歓迎よ。あ、学校のお友達に宣伝してもらおうかな? ほら、うちはあの通り暇だから」
 そうして私が改札を通るまで見送ってくれた。空いた電車のシートに座ってお土産を膝に載せる。微かに漂う甘い匂い。私は俯いて目を閉じた。
 ≪私達はただ、叔父の絵の話が出来るのが嬉しいのよ≫
 ───誰かと話したい。
 マスターはきっと寂しいんだ。関谷さんとまた会わせてあげたい。だけど。
 …か、
 と考えただけで顔から火が出そうだった。
 かずしさん、と呼んだ───
 夢の人は、≪似ている人≫ではなくなってしまった。だるい身体の奧が疼く。その身体があんな夢を見せる。あんな夢を見るのは。
 ぽつり、目の奧に小さな明かりが灯るのが見えた。
 今日は隠れるマフラーもない。泣きたいのをこらえて唇を噛んだ。
 小さな花が咲いている。ぽつりと、たった一つ。
 私が、一方的に、恋しているだけ。  

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