明日の行方

 学生時代を過ごした街は、いつのまにか少しよそよそしい顔に変わっていた。どこか懐かしさを感じるのに、親しくかける言葉も見つからないような感じだ。
 長い月日に色褪せてかすれてゆく記憶と、月日を重ねるごとに色鮮やかになってゆく記憶が混ざり合い、僕の中でまったく違う景色を作り上げていたのだと気付くまでに、随分と歩いた。
 鴨川沿いに少し下ってから京都御苑へと足を運ぶ。
 紅葉の季節は終わった。見上げれば初冬の灰色の空に白い太陽が眩しい。
 両手の人差指と親指を直角に開いて指先を合わせ、四角いフレームを形作る。
 僕の手の中の空は、とても小さい。



 御苑で暫し疲れた足を休めた。太陽が僅かに傾いただけで、風は冷たくなる。煙草に火を点ける時、手の中の小さな炎がやけにあたたかく感じられた。
 こうした僅かな事の一つ一つが、僕を驚かせる。
 ライターの炎の熱さや列車の手摺の思いがけない冷たさに、掌が戸惑う。



 冷たくなった眼鏡を外して鼻の付け根を指先で擦った。序でにレンズを拭う。眼鏡を掛け直して顔を上げると、木々の枝の間から太陽の光が斜めに降り、淡い影が重なり合いながら幾つも幾つも僕の方へと伸びていた。眩しくて目を細めた。
 休日の外出にはいつも鞄に入れていたビデオカメラも今はない。肩に掛けた鞄を背中に回して、冷えた体をあたためようと軽く走って御苑の外に出た。大通りを渡って、街を往く人々の足並みに歩調を合わせた。頭を揃えたように並ぶビルの一階にはそれぞれ雑貨店や古着屋等が軒を連ねている。この通り一つを取って見ても、ビルは変わらないのにテナントだけが入れ代わっている。流行の服で身を包んだ若者達が笑いさざめくのと擦れ違った。通りを流れる風に逆らって泳ぐように歩く。



 ふと、灰色のビルの脇に、地下へ続く細い階段が目に留まった。そこには見過ごしてしまいそうな木の看板が立っていた。『まるめろ』と文字が彫り込まれている。その横に『本日のデザート』とメニューを記した小さな黒板があり、喫茶店か、と階段の奧を覗き込んだ。懐かしい匂いのするこんな雰囲気にはいつも呼ばれるような感じがする。熱いコーヒーでも飲もうと思い、階段を降りた。ドアに下がった『春夏冬中』の札に、ふっと口の端に笑みがこぼれた。



 ドアを開くと頭上でカランとベルが鳴った。
 その瞬間、まるでその音が合図だったかのように、≪そこ≫が僕の目の前に現れた。



 ───それが第一印象だった。
 いらっしゃいませ、という声に促されて足を踏み入れる間にも、目に映る様々な物がそれぞれに圧倒的な存在感を持ち、逆に輪郭がぼやけて見えた。僕は眼鏡が曇ったのかと思って慌てて眼鏡を外した。次いで、二本の指で両の目頭をきゅっと押さえた。
「…どうか、なさいましたか」
 女性の声だ。僕は目を瞬いて「いいえ、」と答え、俯いたまま眼鏡を掛けた。視界の端に、歳月を重ねた木材特有の色と艶を持ったカウンターが映った。その縁に沿って、ゆっくりと視線を移すと、こちらに横顔を見せて少女が一人立っていた。
 ……いや、人形だ。等身大の。
 ハ、と小さく声を漏らして笑う。知らず「まいったな」と呟いていた。
「…大丈夫ですか?」
 声のした方を振り向く。カウンターの向こうから、小柄な女性が僕を見上げていた。僕は目で人形を示し、苦笑して答えた。
「彼女に話しかけられたのかと思いました」
 するとカウンター内の女性は微笑んで人形を見て言った。
「この子がもしも話せたら、きっと同じように声を掛けたと思います」
「…そうですね」
と頷いた。少女人形は今にも何か語りそうに薄く唇を開き、人を迎えるしぐさのように両腕を少し広げていた。僕はその青い目が見つめる先にある席を選んで座った。
 水が運ばれて、僕は「灰皿ください」と顔を上げた。
 今度は、人形かと思った。
 見間違えたわけではない。人形のようだ、と思ったのだ。
 黒檀のように艶やかな真っ直ぐの黒髪と、すらりと長い手足の、綺麗な───人形少女。しかしその瞳は生気に満ちた強い輝きを持っている。年頃から見てアルバイトの学生と思われた。彼女は「はい」と答えて灰皿を取って来ると僕の前に置いた。



 腰を落ち着けた途端に、思っていた以上に疲れている事に気付いた。
 休日ごとに引越の荷ほどきをして、粗方片付いた。会社と部屋を往復するだけの日が続いており、退屈もしていたが……
 なぜ今、僕はここにいるのだろう。
 誰にも気付かれないように、そっと深く息を吐く。



 テーブルの上に両腕を組んで凭れ、ぼんやりと店内を見回した。
 塗装の剥げかけた壁を背に、少女人形の手の指輪の石の赤が鮮やかだ。籐の衝立の奧には小さなピアノが見える。調度の一つ一つに経営者の趣味が窺えた。
 古き良き、などという懐古趣味ではなく、≪ここ≫は独自の時を刻んでいる。
 外した眼鏡を灰皿の横に置いて目を閉じた。



 荷物に紛れ込んだままの、ガラス瓶の中の鳥の巣が目に浮かんだ。



 古びた木床の軋みがこちらに近付いてくる───少し離れた所で微かな音が止まり、思わず身を堅くして目を開け、そちらを見た。
 カップを載せた盆を手にした人形少女が立っていた。
 僕が目を開けたのを見てか、彼女は僅かに俯き、視線を外して歩み寄った。
 呼吸一つも重い。前に置かれるコーヒーの湯気が流れてしまわぬように、息を殺して彼女が離れるのを待った。



 最後の荷物は昨夜から部屋の隅に放ったままだ。
 朝、少し遅く目覚めた時には、久しぶりに外の空気を吸って一日過ごしたい気持ちになっていた。前の部屋より京都が少し近くなった事をぼんやりと思い出し、そうして、───京都の大学を選んで金沢の家を離れた十八の頃を思い出したのだった。



 いずれにせよ、今日は大阪にいたくなかったのだと認めながら、母校の近辺を散策した。なぜ僕はここへ来たのだろう。……十八歳の僕は。



 眼鏡を掛ける気になれなかった。
 黒縁の眼鏡に変えたのは東京で暮らし始めてまもなくの事だったから、もう四年になる。先日うっかりとフレームを折ってしまった事も思い出した。新しい眼鏡は前の物と微妙に形が違う。接着剤とセロハンテープで折れた箇所を留めて一週間を凌いだ眼鏡は……あれも最後の荷物の中だ。



 じわり、と右の掌にいつかの柔らかな感触が戻って、僕は両手を目の前で組んでそこに額を寄せた。カラン、とドアが開いた事を告げるベルの音と床の鳴る音が遠くなる。



 それはとても優しく確かな感触だった。
 ぎゅっと目を閉じると、それは額から、頬に、耳に、首筋にと広がってゆき、肩から胸へ背中へと滑り降りて、瞬く間に僕をすっぽりと包み込んだ。



 僕はただ、それが欲しかった。
 すべてを投げ出して僕を許してくれる人のぬくもり。



 この古都特有の空気が起こす錯覚で、半日の間に僕は十八から今日までの記憶の奔流の中をめまぐるしく流され続けた。あの凍り付くような刹那も、次の瞬間の焼けるような熱さも───穏やかに溶かした春の夕暮れ。その風景も遠く流されていった。
 そうして辿り着いた≪ここ≫は、同じような流れに乗って漂着した記憶の断片が集まったかのように……≪時≫を忘れさせる物に溢れている。
 この流れの前では長く感じられた月日も一瞬の飛沫に過ぎない。それでも───
 僕はここからの流れの行方を思う。



 静かに長く息を吐いて目を開ける。僕の影の下で冷めかけたコーヒーが、スプーンの位置も運ばれた時のままでそこにあった。誰にともなく言いたかった。



 ごめんなさい。



 そんな言葉に何の効力があるだろう。傲慢で身勝手だった。だが許される事や愛する事に、どんな術が他にあるのか僕は知らない。

2001.01.10


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この作品はinside555記念に高崎麻子さんに差し上げました