インサイドアウト-4

 坂口と河上による再度の説得で宇田川も戻り、結局七時頃まで忙しなかった。和泉は「どうせこれからまだまだ修正していくんだから」と、自分と宇田川の仕事を比較する事はしなかった。宇田川の空振りである。遅れを取り戻す事に専念する皆におとなしく従っていた。
 ───昨夜は話の途中だった。
 ベッドに寝転がっていたせいだろう、電池の切れた和泉は、十五分程で飛び起きた。
「大変だ、もうこんな時間じゃないか。帰るよ」
 慌てて起き上がった和泉は腕時計を見ながらふらふらと頭を揺らした。
「何をそんなに焦ってるの?」
「睡眠不足はお肌に悪い」
 古田と俺はそれぞれ椅子に沈み込んだ。「何を今更その面で」
「それじゃお疲れさまでした。また明日、はいさいなら」
と和泉は真顔で片手を挙げ、駆け足で部屋を飛び出して行った。
「何やねん、一体」
「フフフ、まさか、ねえ?」
「え、」と和泉の去ったドアの方を見た。「まさか…」
「そのまさかじゃないの?時間気にして慌てて帰るなんて」
 俺達は「せーの」と互いに指さして回答した。
「女」
「……由加はどうなるねん」
「好都合でしょ?」
「……」
「ほら、本心丸出しですよ澤田」
 古田は煙草に火を点けて、細い目をくっと開いて黒目を覗かせた。
「さっきもね、ストッキングの脚くらいおまえにだってどうって事ないでしょうよ。和泉が彼女の脚云々だったからいやらしく聞こえたんでしょ。澤田のそういう純情なところが僕は気に入ってるけど、和泉だって小学生ののび太君じゃないんだからさ。二人が友人だと主張してるんだからいいじゃないの。こっちで彼女出来たって」
 何も言えなかった。
 ───それならなぜ……
 彼は遠い大阪の地から俺や古田に頼んでまで由加を気にかけているのか。東京に来る度に彼女の為に奔走するのか。そしてなぜ、何度訊いても彼女への気持ちを否定するのか。こっちに女がいるから?そう、それを知れば由加は傷つく───
「お先に」と和泉が部屋を出て行った。俺は古田に「先戻っててくれ」と短く告げて鞄を掴み、彼の後を追った。廊下で肩を叩いて呼び止める。
「昨日の話の続き」
「…話はもう済んだよ」
「まだ判らん事がある」
「判ってるじゃないか」と和泉は足を止めた。
「自分で言っただろう。茶碗が割れると……いや、場所を変えよう」
 辺りを見回して彼はそう言い、先に立って歩き出した。斜め後ろをついて行くと、昼に休憩した公園だった。水の止められた噴水の脇を抜けて木立に挟まれたベンチに向かう。彼なら「腹減った」とでも言いそうな時刻だったが、余程人の耳を避けたいらしかった。ベンチを手で示し「おかけ下さい」と言う。黙って従った。その横の吸殻入れを挟んで彼は隣のベンチの端にこちら向きに座り、早速煙草に火を点けた。
「そもそも由加の記憶が途切れた最初が湯呑みの時だったろう。湯呑みが割れる、その事が由加の恐怖心のスイッチを入れてしまった」
「…肝心な事を忘れとらんか」
「何」
「正月や」
 顔をゆっくりとこちらに向けて、和泉はふっと苦笑した。
「まいったな」
 俺も煙草を取り出した。
「こっちは手が悪すぎて勝負にならへん」
「勝負?…そうか。じゃあ、一旦カードを混ぜよう」
 正面の外灯がふっと灯った。暮れ始めた空の色と桜の木の緑とで、その辺りだけがまぶしく思えてくる。俺は目を瞬いた。
「あの時、僕が鏡を叩いて何て言ったか覚えている?」
「…確か、『これは君だ』」
「どう思った」
「由加は自分が判らなくなった」
「その通り、由加は自分を見失ってしまったんだ。その理由をいろいろ考えていたんだけど、…その前にも由加が変調をきたした事があったね。そう、『振り返る』という話。その時の事を踏まえて考えると、どうも正月は僕の一言がきっかけだったらしいんだ」
「何て言ったんや」
「秋に言ったろう、口が滑ったと。その時にね、澤田の『感情を無視する』という言葉を、僕が『自分が居なくなる』と言ったんだ。由加はあの通り、人の言葉を素直に受け入れる。澤田の『振り返る』もそう。それをきっかけに彼女もまた何かを振り返る事で情緒不安定に陥ってしまった」
 あの後、彼が俺に「澤田のせいにしておけばよかった」と言ったのを思い出した。
「…それが、男嫌いか」と訊ねると和泉は頷いた。
「僕らが眠っている間に特に何かあった訳ではないけど、多分、明け方目を覚まして、自分が男の部屋に寝ていた事に驚いたんだと思う。眠る直前までは僕らに何の疑心も持っていなかった。友人として信用しているからだ。その信用と男性への恐怖…つまり不信だ、その矛盾の間に挟まってしまった。そこで恐怖を無視しようとした結果、『自分が居なく』なってしまったんだ。…彼女は鏡を指さして、『この人の髪を切っている』と言ったんだよ」
 和泉はふうと息を吐いて、眼鏡を外すと目をゆっくりこすった。
 この男は何を考えているのかと、話を聞いても思った。言っている事は解る。何に対してどう考える、それはこれまでに見てきた彼と同じだ。しかしその先をどうする、というところまでが見えない。
「さて、カードが混ざったところで」
「もう混ざったんか。まだやろ、給湯室と湯呑み」
「もう混ざってる。貼り紙を押さえているのは澤田だ」
 俺達は笑顔で睨み合った。端から見たらずいぶんと気色悪かろう。
「…待て、今の話やと、最初のスイッチ入れたんは……俺らって事やないか」
「そうだ」
 和泉は不意に真顔になった。
「だから僕は最後まで目を離さないつもりでいる」
「…最後?」
「……」
 彼は胸ポケットを探り、煙草の箱が空なのを確かめると前髪を掻き上げて上を向いた。俺は自分のを差し出した。どうも、と一本抜いて火を点ける。
「しかし、それは今程不安定になる直接の原因ではないと思う。築地に派遣で来た時、既にスカートをはかない由加だった。彼女が突然弱点を露呈したのはなぜなのか。それが───怪我だと、思う…」
「何でや」
 由加が怪我をした時、給湯室に男は居なかった。その場に居たのは当時入力室に所属していた森さん。森さんは給湯室前の廊下に、そしてどこの誰かは判らないが、女子社員三人。由加はその三人のうちの誰かにぶつかって───背中を押されたらしいが故意か過失か判らない───転び、割れた湯呑みの破片の上に手を突いたのだった。
 しばし黙り込んだ。和泉は顔を上げない。横から覗き込むと彼は目を閉じて何事か考えているようだった。
「…怪我と男嫌いと何の関係があるんや」
「……」
「何か知っとるんか」
「貼り紙を捨てる行為に悪意を感じたと言ったろう。由加は給湯室にある悪意に怯えている。判らないのはなぜ捨てられたのかだ。由加は何か恨みを買うような事をしたのか?」
「…それは、判らへんのや」
 歯切れの悪い会話だ。互いに相手を牽制しながら言葉を選んでいる。胸糞悪い。
「貼り紙があったなら…給湯室に男の出入りもあったろう」
「…あったが、由加が怪我した時はおらんかった」
「そうか…。それなら…貼り紙の内容は」
「『ずうっと一緒』」
「え?」
「中嶋と飯塚さんがずっと一緒に、ちゅうお祝いやねん」
「…そうか」
 ようやく和泉は顔を上げた。首を傾げて遠くを見て、口の端で軽く笑った。
「俺はもう手の内全部見せたで」
「僕も見せられる分はこれで全部だ」
 和泉は「以上」と両手を軽く挙げた。俺は立ち上がって彼の正面に立った。
「待てや。何で残りを隠す。俺には由加を救えんちゅう事か」
「そういう事じゃない。そこまで知っていれば充分だ」
「フェアに行けや、最後のカード出せ」
「言わせるのか」
「この前言うたやろ、由加は俺が貰う」
「そうだった、遠慮は要らないと僕が言ったんだった」
 和泉は眼鏡の奥の丸い目でこちらを斜に見る。顎を上げて、座っているくせに俺を見下ろした。
「…由加が給湯室で怪我をするのは二度目だ。…ある人物に腕を取られて茶碗が割れたと彼女は言った。それだけしか聞いていないが…その時に…彼女がスカートをはかなくなり、あれ程男の手を恐れ、給湯室を恐れるような…怖い目に遭った事は想像に難くない…」
 何の話だ、と一瞬思った。
 和泉がゆらりと立ち上がった。
 彼の細い右腕が、不意に動いた。左顎に一瞬の衝撃。
「俺に言わせやがって!」
 彼の目がギラギラと光っていた。殴られたのだとようやく理解した───泣きそうなのか、とぼんやり考える自分の頭の回転の遅さを感じながら、その目を見下ろしていた。彼はくるりと背を向け、鞄を拾い上げると何も言わず公園を出て行った。




 三日目。午前中に会議を終えると、第三開発の三人は揃って新幹線のホームまで見送りに来た。スーツを着た俺と古田を先導する高橋はどこへ戦争に行くのか上下迷彩柄の服で、菓子折だのピンクのリボンのかかったアザラシやペンギンのぬいぐるみだのの詰まった紙袋を提げており、異様に目立った。その横を歩く和泉はどこで雨に降られたのか、羽織った赤いマウンテンパーカのフードを頭に被っており、こちらからは表情を窺えない。俯き加減に歩く俺と古田の後ろからついて来る河上のキャップとポロシャツが良心的だった。不意に立ち止まって振り返った高橋は真顔で「これ、ユカさんに」と紙袋を俺に手渡した。俺は思わずうなだれた。
「僕からくれぐれもよろしくとお伝えくださいね」
「…俺はこっちでも伝書鳩なんやな…」
「何ですの?」
「こんなもん、こーしてくれるわ」
 紙袋を足蹴にすると、なぜか和泉もそれに参加した。高橋は「あんまりですわ、二人とも」と勇ましい格好の割にはなさけない顔だ。
「由加はおまえにゃやらん」
「そんな、お父さん」
「貴様にお父さんと呼ばれる筋合いはない、って誰が由加の親父やねん」
 あースッとした、と紙袋を拾って中を覗くと古田が「小心者」と笑った。
 車両に乗り込んで座席に着くと、古田は俺にポラロイドカメラを渡し、窓の外の三人と一緒に撮ってくれと頼んだ。カメラを構えると高橋が手を振った。
 ジー、と写真が吐き出された。俺はそれを取ってパタパタと振りながら窓の向こうを見た。ドアが閉まったらしく、車内に外の賑やかさが聞こえなくなった。ガタンと列車が動き出した。ホームの高橋と河上は笑顔で軽く一礼した。
 和泉は両手をポケットに突っ込んで、首を傾げて苦笑いしていた。
 三人の姿が遠ざかっていった。
 ───あの時と逆だ、と流れる景色を見た。




「なあ、由加の調子悪かったん、ほんまに俺のせいやったんか」
「いや、たまたまいろんな要素が重なったんだ。彼女にはそういう、何かのきっかけでバランス崩れやすいところがある」
「難儀やな」
「澤田の言う通り、ミルフィーユなんだ」
「おまえら、ほんまはどうなんや」
「何が」
 俺は由加を振り返った。和泉もつられて振り返る。由加は向こうから憮然として俺達を見ていた。何となく後ろめたい気がして俺達は顔を寄せ合って声を落とした。
 新幹線東京駅。───あの時は俺が見送ったのだった。
「はっきりしてやらんと可哀想やんか」
「はっきりしてるよ」
「誰かに持ってかれても知らんで」
「俺達はそんな気をまわすような間柄じゃない」
 由加が「感じ悪いぞー!」と叫ぶのを聞いて、和泉はフッと笑った。
「遠慮は要らない」
「誰に言うてんねん」
 彼は黙って、目で「戻ろう」と促した。




 ───和泉の言う『最後』とは何なのだろう。
 その時、彼はどうするのだろう。
 手元の写真が徐々に色を現してきた。
 一番左に古田。地蔵のような有り難い笑顔だ。
 その隣は車窓の向こうの高橋。カメラを向けられても変わらないニコニコ顔。
 高橋の横に河上。少し緊張したのか、顎を引いて目を見開いた苦笑。
 一番右に和泉。
 力の抜けた、頼りない笑い。
 彼は置いていかれる源二郎のような、泣きそうな目をこちらに向けていた。