インサイドアウト-2

 午後からはメンバーを担当ごとに分けて打ち合わせた。俺と組む事になった高橋は冗談を交えながら話を進めていく。第三開発の気質なのか、生真面目そうに見える河上の話しぶりも呑気なもので「上の声?頭上を通過するものの事だろう」とあっさり言った。
 大阪本社の二人はそんな彼らを呆気にとられて見ていた。その日を終えての古田の感想は「時間もないのにいいのかしら。僕は楽しいけど」だった。時間がないと言い切るのは、先の見通しが立っているという事だ。その点は安心して仕事にかかれるが、今から首が締まるという事でもある。古田は楽観的に取り組むと決めたらしかった。
「今日はお疲れでしょうからここまでにしましょう」
 河上がそう言ったのは定時のチャイムが鳴った時だった。急ぎの仕事なのに良いのかとも思うが、実際疲れていたので助かった。帰ろうとする和泉を古田が後ろから羽交い締めにした。
「今晩一緒にどう?」
「まあ強引ね、ふーさんったら」
 不気味な真似はよせ。
「もう教えてくれてもいいんじゃない?あの質問状の事」
「…ああ」
 坂口と宇田川が「お先に」と出て行ったのを見計らって古田が言うと、和泉は真顔になった。
 質問状とは、和泉が記憶の途切れた由加に訊きたい事を書いて、俺に寄越した物である。右手を怪我して以来───いや、正月に俺の部屋で錯乱して以来、由加は時々ぼんやりとするようになった。それは和泉に電話で話したように寒気すらするようなものだった。仕事熱心な彼女が二度も仕事中に会社を抜け出した事からも、怪我がいかに彼女を精神的に追い詰めているかが判る。
 だがそれで、彼がどうしようというのかは判らない。
「僕らは聞く権利あるよねフフ」
「和泉さん、この前言うてた店、行きませんか」
 大テーブルの向こうから高橋が陽気な声で言った。俺達は顔を見合わせた。
「古田さんも折角こっちまで来はって、それに澤田さんも久しぶりでしょう。ええ店ありますねん。僕、案内します」
 サービス精神の塊。人懐こい笑顔に和泉は「うん」と頷いて、小声で「後で」と古田に言った。古田は和泉から手を離した。
 そうして案内された懐石の店で由加の話を最初に出したのは、意外にも高橋だった。
「…そういえば、ユカさんてどうしてはります?怪我してはったでしょう」
「会社、休んでるんだよ」と古田が答えた。
「まだ良うなってなかったんですか。気の毒やわ。僕が側についとってあげたいわ」
「由加は『いいです』て言うで」
 俺は煙草をくわえて自分で酌をした。「この前、由加んとこ行ったで」と言いながらちらりと和泉を見たが、彼の視線は高野豆腐に注がれていた。「連休に?」と古田。
「ああ。佐々木さんと森さんと一緒に。あの二人も由加が心配なんやろな。由加も元気にしとったで。そんで、おもろいもん見たわ」
「へえ?何かしら」
「由加のスカート姿」
 これには和泉も驚きの表情でこちらを振り向いた。「そんなに驚く事ですか」と高橋。
「俺は由加と出逢って一年と二ヶ月、スカート姿を見た事ない」
「スカートはいてたの?あの泉ちゃんが」
「写真やったけどな。三人で旅行しよか、て話になって、由加が二年くらい前に行った京都の写真を見たんやけどな」
「京都に来てはったんですか。惜しいわ」
「何がや。…で、誰やったか一緒で…派遣で行った先の友達で」
「里美さん」ボソッと和泉が言った。
「そう、その里美さんと一緒の写真やった。別人みたいやで、膝丈のフレアスカートで髪長くて」
「へええ」と古田が感心したが、和泉はまたもぐもぐと食べて黙り込んだ。
「誰やこれー、て言うたら、由加が『わーっ』て真っ赤んなって」
「可愛いなあ」
「『見るなー』て殴られてもか」
「可愛いやないですか。恥ずかしいんでしょ」
 由加の拳の威力は『可愛い』のレベルを超えている。
 しかし高橋の言う通り、由加の拳は照れ隠しに繰り出されるものでもある。
「それで」と和泉がまた茶碗に目を落としてボソッと訊いた。「旅行はどこへ行くんだって?」
「さあ。森さんが北海道行きたい言うてたけどな」
「北海道?」
 目だけ上げてこちらを見る。黒縁眼鏡の奧からの鋭い視線に戸惑った。
「…彼氏がそっちにおるんやって…」
「そうか」
「そういえば泉ちゃんは北海道に行ってみたいと言っていたねえ」
 古田がさりげなく質問状の回答の話を出した。飯を噛みながら和泉が頷いた。
「僕が訊いた時はね、『他に思いつかなかった』って言ってね。その割には理由がはっきりしないんだよね。それで僕は、泉ちゃんには北海道より行きたい所があると踏んでるんだけど」
「…どこ」
「当ててごらんよ」
「…さあ、判らない。理由を言いたくないだけかもしれないよ」
と和泉は箸を置いて俯き、シャツの胸ポケットから煙草を一本抜き出してくわえた。
 判らないのか。
 俺は半ば呆れて煙草に火を点ける彼を見た。
 質問状の他の回答を見れば一目瞭然だ。楽しかった事は正月、嬉しかった事に勝鬨橋と、由加の回答は和泉のイメージへと結びついていく。
 だからこそ、俺はこの件に関して彼の指示を仰いでいるのだ。本来なら俺の出る幕ではない筈だ。由加の心が彼にあるのなら。
 ───本当に?
 読めなかった。
 彼の沈黙は時に周囲の一切を退ける。何を語るべきか言葉を探る時の目と違い、遠くの何かを睨む様な眼差しは、場の距離感さえも狂わせる。
 時々怖いかも、と由加は言う───
「海外かもしれませんね。ユカさんならオランダの風車が似合いそうですわ」
 呑気な声で高橋が言うと、和泉はぶうっと煙を吐いて「ははは」と笑った。 「どういう発想や」と俺が突っ込むのに続けて和泉がとぼけてみせる……いや、これは本気で言ったのだろう。目が笑っていた。
「長崎で充分だろう」




「今夜は帰さないよ、フフフ」
 古田の不気味な笑いが低く響く。俺達の宿泊先に引っ張り込まれた和泉は「お殿様、そんなご無体な」と言ってベッドに倒れ、枕を抱え込んだ。
「自ら寝床に入るとはうい奴じゃ、フフフ」
「あーれー」
「ぐるぐる回したろか、アホ」と俺は和泉の背中に蹴りを入れた。
「レスキュー隊長はお怒りだ。さっさと白状した方が身のためだよ」
「…何ですか、その隊長って」
「由加が居なくなったり泣いたりすると俺が忙しいねん」
 まあ、楽にしてくれ、と彼は自分の部屋でもないのに俺達に椅子を勧めた。
「あの質問はですね、…由加から聞いたけど、そんなに深い意味のある物ではないんだよ、古田。好きな物は、質問の導入部としてリラックスさせるためのものなんだ」
「ふうん?」
「肝心なのは嫌いな物。由加にショックを与えるようなものが知りたかった。血がだめだと言ってたね。その通り、怪我した時にも取り乱している」
「…ああ…」と俺は頷きながら煙草に火を点けた。
「はっきり言って、一番重要な質問はそれだったんだ。あとはもう、そのままだよ。印象に残っている出来事や関心事。簡単だろう。あの後すぐに東京へ行く事になるとは思ってなかったから、二人には手間かけさせてしまった」
「どーせ直接『今、何が欲しい?』なんて訊けへんかったやろ」
「お恥ずかしい」
 和泉は枕で顔を隠した。古田がフフと笑って「血圧計とはねえ」と言い、備え付けのお茶をいれた。薄いお茶を差し出された。
「つまり由加の関心は自分の健康状態にある。…何度か、倒れているしね」
「うん」
「どうかなあ」と古田が首を傾げた。
「泉ちゃんの様子が変わったな、って思うのは、やっぱり怪我からこっちだと僕は思うのよ。貧血にしても原因はメンタルなものだと思うのね。和泉はそれを探るためにあの質問状を寄越したんでしょう?」
 古田はフッと鼻で笑った。
「だけど行きたい所に『北海道』と答えたような、動機に曖昧さを残した回答で、果たして正しい分析結果を得られるのかな」
「いや、」と和泉は枕を退け、眩しいのか眉を寄せて目を細めた。「曖昧であるという結果を得られる」
「でもそれは確実性を欠いてるやんか」
「その通り」
「なあーんだ」と古田は呆れ笑いを洩らした。和泉は目を閉じて「そんなもんだ」と言った。
「けれど古田は由加の答えが曖昧だったからこそ、本当に行きたいのは北海道ではないと推察したんだろう。古田の解釈を聞いてみたいね。もし由加が何かごまかそうとして答えるならオランダでも長崎でも構わなかったわけだ。そこでごまかしに『北海道』と答えるのにも由加なりの動機がある。曖昧な回答から得られる結論がそれだ。由加の回答のキーは『曖昧さ』だ」
 ふむ、と頷いた。古田が「よく出来ました」と皮肉めかして笑うと、和泉は「やっぱり判ってたんじゃないか」と軽い溜息を吐いた。
「それで、泉ちゃんが北海道と答えた動機を知ってるの?」
「…いや。ただ、関心はあるようだな…」
 和泉は眼鏡を外して目をこすり、また眼鏡をかけて起き上がった。
「するとあの質問状の答えはみんな曖昧なもんと見て解釈せなアカンのか?」
「いいや?好きな物には映画のタイトルをずらっと並べていただろう。それは古田流に言うならごまかす必要がないからだ。曖昧だというのは…つまり」
「そこが彼女の隠したいものって事だよ、澤田。あれは和泉だけでなく、僕らや五階のみんなも見る事になっていたでしょう。みすみす餌食になるような答えは書けません」
 クククと笑う古田に、和泉は「何だ、餌食って」と訊ねた。───真顔だった。古田は「それを解釈するんでしょう、君が」とお茶を啜った。
「血圧計にしたってそうよ。そんな物、うちのおふくろだって最近『とうとう買った』って電話を寄越すような代物だよ。和泉の言う通り、彼女が健康に不安を感じているからそう答えたとしてもね。そう、曖昧な答えの動機。澤田まさか、血圧計プレゼントしたりしてないだろうね」
「するか、そんなもん」
「女の子なら血圧計よりチョコレートや指輪なんかの方が嬉しいに決まってるものね。良かった、澤田が正常で」
「アホ」
 俺と古田のやりとりをつまらなそうな顔で見ていた和泉は「それで、古田はどう思う」と枕を抱えた。「それより和泉の解釈を聞かせてよ。僕らより手がかりを多く持ってる筈だよ」と古田に言われて、「うーん」と結んだ唇を指で撫でて暫し黙り込んだ。
「…さっき古田が『女性なら指輪なんかの方が嬉しいに決まっている』と言ったけど、由加がそれを欲しがると澤田は思う?」
 いきなりこちらを振り向いて彼は俺に訊ねた。少し考えて「いいや」と答えた。
「由加はそういうの身に着けてへんな。見た事ない」
 興味もないのではないかと思う。スカートもはかないし───と言うと、古田が「おや?」と不気味な笑みを浮かべた。
「はいてたじゃないの。何年前だかの写真で」
「…今は好きやないのと違うか」
「そうね、今はそうなんでしょう。じゃあ何で嫌いになっちゃったのかな」
 そう言って、薄ら笑いで和泉を見る。古田はもう解答を得ているらしい。それを悟った和泉はむっつりと彼を睨み、置いた枕に頭を載せて再び寝転がった。
「澤田。その写真の…由加の脚はどうだった」
「は?」いきなり何を言い出すのか。
「いや、その、男として、正直な感想をどうぞ」
「…細かったで?どっちかっちゅーと子供っぽい、あんまり色気ない脚やった」
「そうか、色気はないのか…」
 失礼な事を真顔で言う。
「待って、靴はどうだったの?ナマアシ?」と古田。
「…ソックスとローファーやった。ナマアシ」
「フフ、やっぱりね。旅行なら歩きやすい靴でしょう。オフィスだったらどうかな?ナマアシで会社に行く女性は居ないでしょう」
「ストッキングだな。靴はパンプスかもしれないと考えると別人の脚のようだ」
「何や、いやらしいなあ」
「そう、いやらしいんだ」
 そう和泉が言い、古田がククと笑う。
「要するに彼女も服装によっては雰囲気が変わるという事でしょう?つまり彼女は澤田のいやらしい視線から脚を隠しているんだね」
「何で俺の視線がいやらしいねん」
「そう、古田の言う通り、彼女は澤田のいやらしい視線を感じとっているという事だ。もっとも普段からその事に神経を尖らせている訳ではないようなのは源二郎2号と言われる程、澤田に懐いている事からも判るが」
「だから何で俺がいやらしいねん」
「フフ、冗談だよ。…いいや、あながち冗談でもないかな」と言われて、否定できない。家ではベランダに出て煙草を吸うという古田が、伸ばした足をベッドの縁にかけてゆったりと煙を吐き出した。
「男性恐怖症、かな?」
「……」
 寝返りを打って腹這いになった和泉は両手で頬杖を突いて無言で頷いた。
「何でそういう結論になるんや。俺らとは普通にしてるやんか」
「いいや?」と和泉は眠そうに目を瞬かせた。「覚えてますか?高橋君が東京へ行って、由加を可愛いと連発し、頭を撫でた時の事」
 ───そうだった。由加は「ひゃっ」と言って肩を竦め、高橋の手を避けようとしていた。
 それから彼女が研修指導の初日に恥をかいて、休憩所の長椅子に転がっていた時…
 俺の手に驚いて椅子から落ち、更にテーブルの下が暗いと怯えて逃げ出そうとした。
 『触らないで』
 彼女はそう言ったのだ。
「…和泉、あの時『気安く触るな』言うたのは、知ってたんか」
「……」
 和泉はまた無言のまま頷きながらのそのそと這って、ベッドの縁に顎をかけて煙草をくわえた。古田が火を点けてやり、灰皿を近くに寄せた。
「そこが泉ちゃんの答えの曖昧なところなのよ、澤田。男でも友人としてなら信用する。でも女の子としては見て欲しくない。それがスカートをはかず、拳で殴る理由」
 それを感じていなかった訳ではない。色気がない等とからかうのは彼女の反応を予測した上でのものだし、その意味では彼女と上手くつきあっていく為に男友達の位置をアピールするものでもあった───無意識にではあったが。
 だが、それが……
「…それが、由加の記憶が途切れるのとどう関係が…ある…」

『何がそんなに怖いねん』
『…暗いのが』
『ええ?』
『暗いとどこかに落ちそうなの。怖いの』

『触らないで』

 ───どこかに落ちる。
 意識を失うという意味か───?
 それ程……怖ろしいのか。
「その説明は和泉がこれからして……おや」
 古田がフッと笑って、まだ火を点けたばかりの煙草を消した。
「電池切れだ」