インサイドアウト-1

 彼はひどく不機嫌に見えた。
 その隣の河上が話の総括に入ると、彼はそれまでテーブルの上に組んでいた腕をほどいた。耳を傾けるように傾げていた首を不意にもたげ、口をへの字に曲げて両手で頬杖を突く。目だけは手元の書類から動かない。
「以上です」
 河上が言うと彼は両手をテーブルに落として「お疲れさまでした」と息を吐き出しながら言い、書類のファイルをパンと大きな音を立てて閉じた。それが合図のように一同が溜息をもらし、立ち上がったり片づけを始めた。場が和やかになった途端、彼の上半身は突然ふーっとテーブルの上に倒れた。
「あ、和泉さんの電池が切れてしもた」
 傍らに居た高橋がボソッと言うと、河上が「ここしばらく、殆ど寝てないらしい」と苦笑した。
「和泉さん、ごはん食べましょ」
 高橋はポンポンと肩を叩いたが、和泉は動かない。
 電池切れでテーブルに突っ伏している和泉諒介は、鋭角の才能と食い意地と天然ボケの三位一体が人間の姿をして歩いているという男だ。色素の薄い細い髪の頭の中には言語中枢が一部欠損した脳味噌がたぷたぷと詰まっており、切れ者のくせに口下手である。内臓の殆どが胃袋なのではないかと思える程の食欲を見せるその細い身体を包んでいるのは、スーツではなく白の綿シャツとジーンズだ。
 その彼の肩を叩いている高橋も胸にIDパスを着けているものの、Tシャツの上にカエル色の半袖シャツを羽織っているというラフなスタイルである。涼しげな二人を見て、俺はネクタイを緩めた。
「置いて行くか、起こすのも可哀想だ」
 河上と高橋が頷きあう。窓の外の木々の間をぬって涼しい風が入り込んだ。外は暑そうだ、と明るい窓から皆の方へ視線を戻すと視界に黄色い点が瞬いた。
「行きますか」と坂口が訊いた。古田が「そうですねえ」とのんびり答えると、彼は先に立って宇田川と一緒に部屋を出て行った。河上と高橋もそれに続く。会議室に和泉を一人残して、パタンとドアを閉めた。
 初めて訪れた和泉の勤務する会社は俺と古田の会社の系列の上位会社であり、築地にある我が社とはまたずいぶんと趣が違っていた。広い敷地の緑豊かな庭に囲まれた社屋は二棟あり、小さい方の棟の一階に開発部がある。和泉の所属する『第三開発』と呼ばれるもっとも少人数のグループは、自由闊達と言えば聞こえは良いが、要するに割と好き勝手にやっているらしかった。服装などもその一例で、他の開発グループの人間はきちんとしているのである。社外の人間の目もあるのか、と後に和泉に訊ねたところ、「いや、ただの好みの問題だ」という拍子抜けする答えが返ってきた。
 ゴールデンウィークの直後でもあり、三日間の出張の初日にして既に疲労している。俺と古田は声を落とした。
「何ちゅうか、まあ、なあ…」
「そうだねえフフフ」
 曖昧な台詞しか出てこない。朝から新幹線に乗って大阪まで来ており、話すべき事は皆道中で話してしまった感がある。そして今の打ち合わせの緊迫した空気の後に和泉が一気に毒気を抜いてしまい、俺も古田もフニャフニャに疲れてしまったのだ。
 外に出て第一棟へ移動する。和泉を置き去りにした事もあって、社員食堂へ向かった。俺は久しぶりにうどんを食べる事にした。
「連休明けで皆さんお疲れなんじゃないですか」
「和泉程ではないですよ」と俺が答えると皆は笑った。
 テーブルを囲んでいるのは俺から時計回りに、隣に古田。
 古田の向かいに我が社の大阪本社から来ている宇田川。中途採用の彼とは初対面。
 宇田川の隣に坂口。俺が本社に居た頃の同僚。彼と古田と俺、そして眠りこけている和泉が同期入社だが、古田と坂口は殆ど初対面である。
 坂口の隣に河上。河上さん、であろう。今回の仕事の指揮を執る。
 そして河上の向かい、俺の右隣に高橋。河上と彼の二人は第三開発の人間だ。
「和泉は変わりませんな、成長しとらんようで」
「昔っからあんな感じですか」と高橋。
「あんな、てどんなや」
「涼しい顔でボケてくれますねん」
「天然だよ、あれは。フフ」
「そうだったかな」と坂口が割り箸を割って言った。
「昔はもっと、取っつきにくい奴だったと思うけど。時間かけて話さないと判らないような、そういう、ちょっと損な性分だったね」
「それは今も変わらへんで。『イヤソノ星人』と命名されてんねん」
「何だ、そりゃあ」
「あ、判ります。『いや、その、』言うて一人で困ってますねん」
「一人で」と笑いが起こる。
「この前会った時は全然変わらないと思ったけど」
と坂口が言って、いつの話だと訊ねると、
「去年の春先…三月だね、いきなり電話があって『今こっちに来てる』って言って訪ねて来たんだよ。突然だったんで驚いた。それで一時間くらい居たのかな、特に何を話すでもなくて」
 俺と古田は顔を見合わせた。
 それはちょうど、和泉が現在の会社に移るか築地の我が社に残るか迷っており、それを決めるために大阪を訪れた時の事だったからだ。和泉は坂口と親しくしていたから、相談したかったものの、いつもの口下手を発揮してしまったのかもしれなかった。
「殆ど黙ってたね」と坂口は笑う。「でも彼は昔から無口だったから、特に気にしなかった。僕の話に相槌を打ってばかりで、帰って来るなんて一言も言わなかったし。今年、年賀状貰って初めて帰って来てたのを知ったくらい」
「へーえ」と高橋と河上が坂口の顔を覗き込むように言った。
 そうだろう、と思う。
 和泉は一人で何かを考え、滅多に語らない。
 大阪に戻るかどうかをまだ決めかねていたならなおさらだ。彼が口にしたがらないのは確実ではない事、そして自分の事。
 坂口を突然訪ねたと聞いて、俺は先月の和泉からの電話を思い出した。




「和泉です」
といつもの通り丁寧に名乗る。しかし声の調子は少し気の抜けたような感じがした。
「今、何遍も電話してたんや。ずーっと話し中やったな」
「うん。由加と話してた」
「何や、もう由加から聞いたんか」
「いや、その、…由加にも澤田から聞いたんだろうと言われて困ってる。何があったのか教えてくれ」
「はあ?何やそれ」
 泉由加は俺と和泉の共通の友人であり、俺の会社の入力室に所属するオペレーターである。一月に怪我をしたために右手の不自由を強いられているが、何とか仕事を続けている。彼女はぼんやりしているようで地道な努力家でもある。手を回復させようと懸命に努力しており、仕事熱心さを買われて、この春、彼女は新入社員の指導を任されたのだった。
「何かあったのは判ったんだが、『もう気にしてないから大丈夫』と言われて、その、それを彼女の口から言わせたくなかったんだ。だから、もう澤田から聞いた事になってる」
「なるほどな」
 そこで、その日の昼間にあった出来事を話した。
 由加と俺と古田の三人とで休憩所に居た時に、由加が居るとは知らずに、新人が由加の手について「仕事が出来ないのだから辞めればいいのに」と言ったのだ。
 右手の怪我さえなければ由加は優秀なオペレーターだった。キャリアも長い。プライドもあるだろう。まして自分が辛い中を懸命に指導してきた新人に言われては大きな痛手だ。彼女は全身を震わせ、声を殺して泣いていた。
「古田が新聞広げて由加を隠してな、俺は…そのガキに言うてやりたかったんやけど古田に止められたわ。まあ、由加もまた研修に戻るんで、言わへんで良かったけどな…。そんで、会社抜けて俺が『どこ行こか』言うたら、由加の奴ぼーっとして、『諒介が呼んでる』言うねん。寒気したわ」
「……」
「そんで、他に思いつかへんかったから勝鬨橋連れてった。それで良かったか」
「…うん」
「ほんまにノイローゼと違うか。見とれんわ」
「……」
「怪我からこっち、…おまえにゃ言うな、言われてるけどな、毎日泣いとるで。休憩のたんびに、ぼーっとトイレ行くねん。で、時間切れる頃にぼーっと戻ってくる。あれは絶対隠れて泣いとる」
「だいたい判る」
「インストラクター始めてから泣かへんようになって、その辺市川さんの目論見通りやなと思ってたんやけど、新人になめられて可哀想や」
「いや、それは、もし由加が指導をしなかったら、もっと分が悪かったろう。由加がインストラクターだから多少の事はあっても由加が優位に立てるんだ」
「ふむ」
「実際、由加自身の気持ちに関わってくるよ、それは」
 それは和泉の言う通りで、翌日から由加はまた元の通りに新人の面倒を見ていた。
「…和泉おまえ、由加に『待っとれ』言うたそうやな。中嶋に聞いたで」
「……」
「ははは、何や由加が口滑らしたらしいで。みんなに突っ込まれて呆然となっとったて佐々木さんがな」
「…確かに言いましたが…それはその、皆さんのご期待に添えるような意味では…」
「ほんならどんな意味やねん、それを由加はちゃんと解っとるんか。毎日おまえが泣かしとるんちゃうんか」
「……」
「冗談や」
 和泉はふっと溜息を吐いて「まいったな」とぽつりと言い、少しの間を置いた。
「その、…覚えてる?僕が口を滑らせた話。由加が漠然と恐れている事があると、由加本人に言ってしまった時の事だ」
「ああ、あったな」
「その『漠然』としたものが何なのか、彼女自身が見極める事が出来るようにするまで待たせている。そう言えばいい?」
「……」今度は俺が答えられなくなった。
「更に言うなら、それは彼女の記憶が途切れている事に大いに関わっている。いや、それは僕の憶測だが、ほぼ確信している。ただ、まだ詰められないんだ」
「…何の話や」
「手札が足りないんだ」
「一体何の話なんや」
「はっきり訊くよ。婚約祝いの貼り紙は、給湯室に貼られたのではないのか」
 ───給湯室。ヒヤリとした。
「それが何や」
「給湯室なんだな?」
「ああ。だから何なんや」
「この前由加が隠したがっていた事は貼り紙だ。そして、貼り紙を捨てるという行為には悪意が感じられる。『捨てられた』と言ったし彼女は『嫌われているみたいで』とも言った。問題は場所だった。僕は給湯室ならどうかと考えて仮説を立てた」
「何で給湯室やねん」
「澤田が言ったんじゃないか、『茶碗が割れると由加のネジが飛ぶ』」
「茶碗…」
「湯呑み茶碗があるのは給湯室だ」
 サアアアア
 不意に雨音がした。俺は立ち上がって窓辺へ行き、カーテンを少し開けて外を見た。
 細かな雨粒。早足の子供のような雨だ。
「もう一つ重要な事がある。貼り紙と怪我と、どっちが先だ」
「貼り紙や」
「…そうか」
「それより、何で給湯室に…こだわっとんねん」
「……」
「これでおまえは手札を揃えたかもしれんが、こっちはババしか残っとらんで」
「僕のカードを使えないように抑えているのは澤田だよ」
「何のこっちゃ」
 ええ加減にせえよ、という言葉が出かかった。
「すまないがまだ手の内を見せられないんだ。ともかく、以上が『待っていろ』の意味。由加がそれを解っているかというと、ある程度ぼかして話しているので半分は解っていないだろう。それから、…その、僕が毎日泣かせているっていうのは…その…」
 最後の方は頼りない口調になった。先程冗談と言ったが、あれは殆ど咄嗟に出た本音だった。
「まあ、ええわ。はっきりしたら言え」と言いながら窓を細く開けると雨が吹き込んだ。
 ───こちらにも、話していないことがあるしな……
 お互い様だ。
「…ああ、そや。あんな、去年、新幹線のホームで訊いた事な」
「覚えてるよ」
「ほんまにええんか」
「言った通りだ」
「ほな、そうさせてもらうわ」
「……」
 和泉はフッと笑って「それじゃあ、また」と電話を切った。




 充電を終えた和泉がふらふらと社食に現れ、こちらに気づかずに窓際の席に丼を載せたトレイを置いた。無表情で椅子に腰掛け、丼をじっと見る。隣の高橋がそれに気づいたようだったが、ちらりと俺を見てから何も言わずに箸を動かした。俺は小声で「和泉に声かけへんのか」と訊いた。
「何や考え事してはるようですわ。せやから澤田さんも声かけられへんのでしょ」
 何と。ヘラヘラとして見えたが、高橋はなかなか細やかな性質のようだ。「今朝からあんなですわ」と言ってポリポリと漬け物を噛んだ。俺は違う理由で声をかけ難いのだが、その時の和泉は坂口の言ったような、大阪本社に居た頃の人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていたのだ。