貧血を起こした私は休憩室で少し休んだ後、早退した。
「入力の人を呼んで来る」と言って杉田さんと佐々木さんを連れて戻った諒介とは、結局言葉を交わせないままだった。部屋に戻って、ぼんやりと玄関に立ち尽くす。
キッチンのテーブルの上に、諒介のビデオカメラがあった。
あれから、ずっと。
中嶋さんと雪枝さんの披露宴のビデオだ。彼の事だから、編集もするだろう。いつまでも私が持っていたら、彼にも中嶋さん達にも迷惑がかかる。そう思いながら、触る事も出来ずにずっと放っておいたのだ。
私は実家から送られて来たみかんの箱を横に倒した。床にみかんがごろごろと転がった。みかんの間を歩いて箱とカメラを手に奥の間へ行き、古新聞やタオルを丸めて箱の底に敷き詰め、そこにカメラを収めた。上からも丸めた新聞とタオルを何枚も被せて蓋をして、ガムテープで封をした。
はあ、と大きな溜息が出て、私は着替えもせずにベッドに潜り込んで丸くなった。
一、二時間眠っては目が覚めて、また眠る。お腹は空いたが何か食べる気力もなかった。八時頃に澤田さんが訪れた。会社から寄ってくれたらしい。たっぷり寝たから大丈夫だよ、と言うと「そんな顔やな、ますます丸くなっとるわ」と言われた。
「何や、このみかん」
「…しまうの忘れてた」
彼は玄関からみかんを拾いながら歩いて、キッチンのテーブルの上にごろごろと置いた。
お茶をいれると、彼は「座ってろ」と椅子をひいた。彼が座れないので、お茶を奥の間に運んで座布団を出した。床に置いたお盆を挟んで向かい合う。
奇妙な感じだった。こういうの、何かに似ている……と考えた。
「あ、おままごとみたいなんだ」
「何やいきなり」
「こうやって、低いところにお茶があって、向かい合って座るの」
「ああ、なるほどなあ」
友達とお人形と一緒に遊んだままごと。みんながやりたかった、お母さんの役。
おはよう。いってらっしゃい。おかえりなさい。今日のごはんは何にしようか。お風呂に入りなさい。おやすみなさい。───何度もおはようとおやすみを言って、楽しい事ばかりの毎日を繰り返す。公園の砂場や二段ベッドの、幸せな家。
「俺は兄貴と二人兄弟やから、やった事ないな」
「こんな小さい、プラスチックのお茶碗に砂のごはんを盛るのよ。おかずなんかペンペン草だし。でも本気でごはんのつもりだったな。で、…どうぞ、って」
子供の頃を思い出して笑いながら、どうぞ、と湯呑みを置いてふと気がつくと、澤田さんは俯いて肩を震わせて笑っていた。
「めっちゃ恥ずかしいわー……」
「え」
澤田さんの言葉の意味するところをようやく理解して、顔がかーっと熱くなった。
私の向かいに座っているのは、子供の頃のパンダのぬいぐるみの『お父さん』ではない。
目を細めて微笑む澤田さんの手が伸びて来て頬に触れた。ゆっくりと顔が近づいてくる。思わずぎゅっと目をつぶって下を向いた。彼の動きが止まる気配がして、………
「頭突きっ」
脳天にがつんと当てられた。
「痛い、何するのよ」と顔を上げると、澤田さんも額を掌で押さえて「俺も痛かったわ」と上目で私を睨んだ。クッと笑い出した彼につられて私も吹きだした。
本当に、この人にはかなわないのだ。
笑って力の抜けた体を抱き寄せられると切なくなる。
額に。瞼に。頬に。静かに降ってくる。身を縮めると、耳元で声。
「俺が怖いか」
答えられずにいると、澤田さんは肯定と受けとめたのか「うん」と言った。
「……和泉も古田も気がついてた。由加がスカートはかないのは男が怖いからやって」
───そう、諒介は知っていた。古田さんも気づいてたのか……
目がじんとして瞼を閉じる。俯くと額が澤田さんの肩にあたった。
「何があったなんてのはどうでもええよ。ただ、それで由加が独りになろうとしてる事が、俺は…和泉も…、古田も、寂しいねん」
静かで、優しい声だった。じわりと涙が滲んで、閉じた目を澤田さんの肩に押し付けた。
───里美。
あれから───もう誰も好きにならないと思っていた。女である事も忘れたかった。
澤田さんのごつごつした手が、私の後ろの髪をくしゃっと撫でた。
「…怖いものを無理にどうにかしようと思わないし、時間も必要やと思うけど、ただ由加がちょっとずつでも、俺を信じてくれればええよ。…ゆっくり、時間かけて、」
そう言って彼は私の目尻に唇を押し当て、フッと笑った。
「今日はここまで」
切れ長の目が間近から私の目を覗き込んで、すっと離れた。鞄を肩にかけて「ちゃんと飯食わなアカンで」と立ち上がる。うん、と頷くと、澤田さんは照れくさそうに視線を外して「おやすみ」と帰っていった。
翌日、午前の休憩に開発部の前を通ると矢島部長の席の前に諒介の後ろ姿が見えた。思わず足を止める。古田さんがちらりと私を見て、小声で「もう帰るって」と言った。
部長に一礼して、諒介が振り返る。私は古田さんに「そう」と答えて頷き、早足で通路を抜けてトイレに駆け込んだ。
諒介が部長の席から離れて、廊下を歩いて、エレベーターのボタンを押して……
何をやっているのだろう。諒介が居なくなる頃合を見計らっている。
意味もなくゆっくりと手を洗って廊下に出た。諒介はエレベーターのドアの脇の壁に凭れてこちらを見ていた。会釈して立ち去ろうとすると「由加」と呼び止められた。
「…ちょっと」
わずかに頷いて目配せする。私が近づくと、彼はエレベーターのボタンを押した。一階で停まっていたエレベーターが動き出した。
「…その、」
と俯いた横顔を見ると、昨日折れた眼鏡の弦にセロハンテープを巻いて留めてある。
エレベーターのランプが二階、三階と点っていく。
「……話が出来る時が来るまで待って欲しいと言ったけれど」
四階。
「もう、待たなくていいから」
……五階。
背を丸めて振り向いた彼は、私を見てそう言った。エレベーターのドアが開く。
彼は壁から離れて私の正面に立ち、「すまなかった」と頭を下げた。そしてエレベーターに乗り込み、ドアを閉めた。……私はそれを見ているしか出来なかった。
四階、三階と点灯してエレベーターが降りてゆく。
───諒介が行ってしまった。
判っていた事だけれど、現実になってみるとまるで初めて知った事のように感じられた。
もう、今までのようにはいられない───判ってる、判ってる……と繰り返し言い聞かせる。先刻まで諒介が凭れていた壁に顔を伏せて涙を堪えた。
忘れると言ったのは私の方だ。だからこれは当たり前の事だ……
それでもどこかで信じていたのだ。変わらずにいられるんじゃないかと。
「由加」と澤田さんに呼ばれても振り向かずにいた。堪えきれなかった涙が落ちて、それを見せたくなかった。私の肩に手を置いて顔を覗き込んだ澤田さんは、弾かれたように駆け出して階段を降りていった。
残業を終えて入力室を出ると、古田さんも帰った開発部に一人、澤田さんが残っていた。デスクに向かい、羽織ったコートのポケットに両手を入れて椅子に座っている。市川チーフが「澤田君、おつかれさま」と声を掛けて通路を早足で歩いていった。振り向いた澤田さんは私を見つけて寂しげに微笑んだ。───あの後、諒介と話をしたのだろうか。彼は何も言わずに鞄を手にして歩み寄り、目で「行こう」と促した。
駅までの道をゆっくりと歩きながら、その時の様子を聞いた。聖路加病院の前から、その先の信号を指差して「あそこで追いついて」と彼は言った。
「……『待たなくていい』って言ったんやってな。今まで由加を待たせていたのは何だったんだ、と訊いたら」
諒介は、かすかに苦笑してこう答えたという。
───何だったんだろうな
その言葉の真意を測りかねて一瞬カッとなった澤田さんは、次の瞬間、虚を衝かれた。
諒介は、これまでに見た事もないような顔をしていた───彼は澤田さんが戸惑う間に道を渡って早足で去った。
「無表情……言うかな。でも前に大阪で見てたのとも違う」
そうなのだろう。変わってゆくものが、諒介にもあった筈なのだから。
部屋に帰って、私はテレビ台からブルーレイを取り出した。『勝どき橋』とディスクにサインペンの文字。
諒介が撮影したビデオだ。
───橋はもうなくなってしまった。
ディスクを手に立ち上がり灰皿を取って押入を開けた。足元に置いたままだったみかんの箱と一緒に押入にしまった。それらが見えなくなってもまだ足りず、ベッドにもぐり込んだ。
「判ってる……判ってる……」
声に出して自分に言い聞かせ続けた。眠りに落ちるまで涙が止まらなかった。
諒介のビデオカメラを送り返さなければ、とようやく思えたのは、翌週の土曜日だった。箱を抱えて近くのコンビニへ行く。レジカウンターの脇の肉まんのケースを見ても、諒介を思い出す。お昼に食べるおにぎりを一つ買って、宅配便の伝票を受け取った。
「明日届きます」
日曜なら居るだろうと思って、「はい」と頷いた。勝鬨橋のビデオと灰皿は押入に放り込んだままだ。部屋まで戻る道に公園の脇を通る。秋晴れの空に眩しい日差しが辺りを照らしていた。
……少しずつ。少しずつ、痛みは薄れてゆく。こんな事は初めてじゃない。
週が明けて会社へ行く。仕事をする。毎日会う人達。キーを叩く作業。
変わらない日々の中で、欠落感に慣れてゆく。時間だけが、穏やかで優しい。
宅配業者から電話があったのは週末の事だった。半日の仕事を終えて、池袋に寄って帰宅したのは夕方だった。デパートの地下で買ったお総菜をテーブルに置いて、お米を研ごうとしていた時に電話のベルが鳴った。
「送り先の和泉さんですが、引っ越されたようで」
───引っ越した?
知らない。……諒介が私に言わないのは仕方ないとしても、澤田さんからも古田さんからも聞いていない。
「それで荷物をお引き取り願いたいんですが、これから伺ってよろしいですか」
呆然としながら「はい」と答えて電話を切った。心臓がどきどきして、しばらく動けなかった。いったい、いつ───私は澤田さんの携帯に電話をかけた。「諒介が引っ越したって知ってた?」と訊ねると、「ええっ?」と大きな声が返った。少しの間があって、彼は「知らん」と言ったきり絶句した。
「あの…、諒介がこの前来た時に忘れ物をして…。それを送ろうとしたら、…荷物が返って来ちゃったの」
「…判った。古田に訊いてみるわ」
彼は「後で連絡する」と電話を切った。のろのろと研いだ米を炊飯器にセットした頃に宅配業者がやって来て、送り返された荷物を受け取った。どうしよう……と思いながらそれを奥の間に置いて、ベッドに寄り掛かって座り込んだ。
三十分程経って、澤田さんから電話があった。
「古田も知らへんて」と言われて胸がぎゅっと痛くなった。
「引っ越したばかりで慌ただしいから通知が来るのはこれからやろ、て古田に笑われたわ」と澤田さんは苦笑した。私は「ああ、そうか」と答えながら、引越の知らせは私には来ないかもしれない、と思った。
「…もしこのまま…和泉が俺らの前から消えても」声に小さな溜息が混じる。「仕方ない、古田はそう言うて」
「………」
「『止めないであげてよ。あれはそうした奴だよ。それに、澤田には和泉を引き留める事は出来ないよ』て言われてな、返す言葉もなかった」
古田さんの言う通りだ。
……何もなかった事にして、なんて───思い上がりだ。
電話を切って、戻った荷物のガムテープを剥がす。SDカードだけでも中嶋さんに渡そう。
差込口がわからず、手の上で転がしていたら、操作ボタンに触れて再生が始まった。慌てて停止ボタンを押す。……ふと、もう一度見たくなって液晶パネルを開き、再生した。
突然、風景が回りだした。
公園で撮影した場面だ。地球儀が軋むキイキイという音。スピードが上がる度に私の声が小さく「わっ」とか「きゃ」とか入った。
両腕を広げて地球儀を回す諒介。
照れたように笑って横を向く。加速をつけて手を放して画面から消える。明滅して回る景色が斜めに揺れた。時折映る諒介はこちらを向いていて、見慣れたあの頼りない顔で笑っているような、それでいて見た事もない人のような顔をしていた。
キイキイという音が止んで画面が青白くなった。オフホワイトのジャケットの裾。カメラが取り上げられ、私が映った。
私の周りで、小さな丸い世界が回りだした。
「やだ」「怖いよ」などと言いながら笑う私。左手で傍らの棒を握って、俯いたり、顔を上げたりする。夜空を見上げる笑顔の私がズームアップされていった。キイキイという音がゆっくりになってゆく。
音が止んだ。頬を紅潮させて笑いながら、目が回るよ、と私が目を伏せた。
鳥かごみたいだな
鳥かご?
画面が少し引いて、内側から地球儀に凭れて座り込む私の全身が映った。
───鳥かごの中。
再びカメラが寄る。画面の端から伸びて来た諒介の右手が大きな掌を広げて、私の肩の上の辺りで地球儀───鳥かごに触れた。
青い卵の白い……
鳥。
ふいに映像が消えて画面が真っ暗になった。録画はそこで終わっていた。
画面の中の私は、自分じゃないみたいだった。外灯の淡い光の中で、髪を揺らして笑い、ゆったりと遠くを見て、穏やかな表情で目を閉じる。
あれは───いつも、私に差し出されていた手。
いつのまにか私はあんなふうに笑えるようになっていた。それなのに……あの手にずっと守られていたのに、私は、自分の心からも諒介の心からも目を逸らしていた。諒介を解ってあげたいなんて言って、ちっとも解ろうとしていなかった。
『本当に、諒介って訳わかんないよ』
『怖い?』
『落ちるな───そこには何もない』
……そう、ずっと自分の気持ちから逃げていた。
諒介が怖かった。
男の人の諒介が怖かった。彼に怯える私を知られたくなかった。
───私はずっと、諒介が好きだったんだ。
『大丈夫だよ───ここには光がある』
けれど……もう、ここに諒介は居ない。
彼はどこへ行くのだろう───いつも遠くを見ている事しか解らなかった。
あの静かな眼差しと声。
『僕は橋の向こうを見る』
私は押入の奥からブルーレイと灰皿を引っぱり出した。ディスクをプレーヤーに入れ、テレビを点ける。社内の様子が映し出された。声の代わりに流れる音楽。
五階に着いて、開発部で澤田さんがカメラに向かって指をくるくる回し、暗転。
『どっちだ?』の文字。
入力室で私と言葉を交わし───外へ出た諒介の目は勝鬨橋を捉える。
行くあてを探して、彼は橋にたどり着いた。
橋の上で
僕は来た方と行く先を代わる代わる見た
時折 危うくなる足元にひやりとして立ち止まる
しかし揺れているのは橋ではない
彼は遠くを見ては振り返り……橋を渡ってゆく。今は足を止めて、橋の上で独り、語りかけている。膝を抱えて耳を傾けた。
振り返ると変わらずにあるものが
足元の確かさを教えるが
進むほどに遠くなるように思えて
また振り返る
繰り返し 何度も
……変わらずにあるもの───
『和泉は一人で渡ろうとしとるみたいやけどな。渡った先を見とるからやろな』
そうするうちに判った事がある
橋は行き来するものだと
僕は何度でもこの橋を越えるだろう
───何度でも。
涙で画面がかすんだ。
もしかしたら……
あの橋はずっとあるのかもしれない。
何度も振り返り、渡っては足元を確かめ、もっと遠くまで行っては、また戻ってくる。
私も、橋を越えたのだ。
新しい岸にたどり着き、けれど───また振り返るのだろう。
危うい足取りで渡った、あの橋を。自分の足を、その先の道を、確かめるために。
何度も、何度も。
橋だけが変わらずに私を迎えてくれる。
振り返るたびに、橋の向こうに諒介がいる。
私に背を向けて歩いてゆく。……その姿が、きっと見える。
諒介の後ろ姿を振り返っては、私も橋から歩き出す。