ビタースウィート・オブ・ライフ-5

 諒介の言い方が「二、三日居る」と曖昧だったのもあって、翌日には「飲みに行こうか」という事になった。午後の休憩時間に休憩所を覗くと、案の定、澤田さんと古田さんが喫煙タイム。「今夜行こうって」と言うと、澤田さんは頷きながら煙草を消した。
「僕はパス」と古田さん。
「入力室は誰が来るって?」
「チーフと佐々木さん」
「ん、そか。…あそこがええか、タイムカプセル。五人くらいすぐ入れるやろ」
「うん、佐々木さんも言ってた」
「タイムカプセルって?」と古田さんに訊かれて「名前は違うけど古くさい雰囲気の居酒屋だよ」と店の様子を話す間に、澤田さんがスマホでメッセージを送る。最寄りの駅で待ち合わせという事で、程なく諒介から「了解」と一言、返事が来た。
 澤田さんはいつもと変わりない。
 快気祝いの夜からこっち、澤田さんは特にこれまでと変わらず接してくれている。
 プレポーズ───前哨プロポーズだから、とのこと───も、諒介との喧嘩も、気にならないみたいに。
 ───このまま……
 三人で買い物をして、年を越して、初詣に行って。あんなふうに、ずっといられるんじゃないかと思ってしまう。虫のいい話だと判っているけれど。
 ぼんやりと澤田さんを見ていると、私の視線に気づいた彼はフッと笑って頬杖を突いた。
「ええ顔やろ」
 思わずがくんとうなだれた。「どうだか」と古田さんの声。
「古田の審美眼は薄目やからな」と澤田さんは立ち上がって「先戻るわ」と私達を一瞥した。「うん」と頷く。スッと歩いて休憩所を離れる彼の背中を見ながら、彼は照れくさかったのだと気がついた。
「あ、泉さん」
 休憩所の前を通りかかった森さんが足を止めた。まっすぐこちらに近づいて来る。
「ん?入力室に用事じゃないの?」
「いえ、開発にこれ届けに…」と抱えた封筒を示す。
「あ、森さんも来ない?諒介と飲みに行くの、今夜だって」
「…和泉さんと、ですか」
「うん、さっき諒介と連絡ついて」
「うーん。今日は遠慮しときます。泉さんも澤田さんも、積もる話とかありますよね?」
「埃が積もるのかしら」と古田さんは鼻で笑った。
 古田さんは、諒介と澤田さんが喧嘩しているのを知っているのかもしれない。五月に大阪への出張から帰った日、彼が諒介の部屋に電話をかけていたのを思い出した。そんな古田さんを、森さんは困ったような顔で見て、私を振り向いた。
「…あの、泉さん…」
「なあに?」
「…いえ、あの…」
と、森さんは俯いた。

 『…何か事件を起こしてこっちに飛ばされたんだとかね』
 『事件?』

 ……今の『いずみさん』は、『泉』ではなく『和泉』だったのだろうか。
 どきっとした。
「…和泉さんによろしくって伝えてください」
 顔を上げた森さんは困惑の笑みだった。
 ……もしも彼女が大阪からの噂を私の耳に入れようとして、告げ口のような事は出来ないと黙っていてくれているなら……
 優しい、いい子だ。
 だから知らずにいよう───
 私は「うん、判った」と彼女に笑いかけた。




「澤田さんも久しぶりなんじゃない?和泉さんと飲みに行くの」
「…この前大阪行った時はそんな暇なかったしな。五月に行った時以来か」
「泉ちゃんは?その前に和泉さんがこっちに来た時以来か、半年以上会ってなかったよね」
「うん……」
 ───本当はその後にも何度か大阪まで落ちてるけど。
 などと言える筈もなく、曖昧に答えて頷いた。新富町から有楽町線で諒介との待ち合わせの駅へ。ホームから階段を昇ってすぐ、自動改札の向こうに諒介の姿が見えた。こちら……改札の方を向かず柱に寄り掛かって腕を組み、前方を見つめ考え事をしているような横顔。
「和泉君」と市川チーフに呼ばれて彼は振り向いた。唇をきゅっと結んだまま、目を細めて組んでいた腕を解くと、軽く会釈して柱から離れた。
 じゃあ行こうか、とぞろぞろ歩き出す。黒っぽいグレーのスーツの澤田さんの斜め後ろの諒介は、焦茶の細コーデュロイシャツの襟元から白いTシャツの丸首を覗かせ、ブルーグレーのニットジャケットを羽織っている。その下は淡いグレーのツイル地パンツに見慣れぬ黒のコンバースで、澤田さん同様に通勤スタイルの私達の中でたった一人、余所の人のように見えていた。
 実際、余所の会社の人だけど。
 だけどこんなふうに、いつのまにか諒介が遠くに居る事が当たり前になっていて、皆との会話にブランクがある。───半年。短い時間に長い距離を感じた。
 タイムカプセルの店に着くと、諒介は隅の飾り棚のブリキの玩具に目を留めて「ふうん、面白い店だな」と微笑んだ。「でしょ」と佐々木さん。通りに面した窓際の席に通されて腰を下ろす。私を含む女性三人が並んで座り、私の向かいに澤田さん、その隣に諒介。
 会社の皆の事などを話しているうちに、先程まで感じていた諒介との距離が少しずつ縮まってゆく。彼は頷きながら聞き、時折質問を挟み、笑った。彼が少し引いて見えたのは、澤田さんと距離を置いているらしいからと感じられた。…それも少しずつ埋まっていくかな、と思いながら聞いていた。
 店を出て、有楽町線の駅へ向かう途中でJR線で帰る人達と別れ、諒介と二人になった。坂道を下りながら訊ねた。
「…どこに泊まってるの?」
「友達の所なんだけど…」と彼は人差し指で鼻の頭を軽く掻いた。
「どうして澤田さんの部屋じゃないの?前はそうだったじゃない」
「うん、まあ」
「喧嘩したんでしょ」
「いや、その…それは…ね。うん。僕と澤田の問題だから」
 諒介は首を傾げて苦笑した。「それより」と溜息を吐く。
「話がある。寄っていってもいいかな。遅くなると泊めてくれてる友達にも悪いから、手短に済ます」
 眉を下げた頼りない微笑───そう見えるのに、彼の眼差しはどこか鋭かった。話し場所に私の部屋を指定するということは───
 私は先月落ちた……らしい……時の事を思い出し、一人赤くなって黙って頷いた。
 ───やっぱり落ちていたんだろうか。……うわあ。
 内心でじたばたしながら電車を乗り継いで私の部屋に向かった。マンションの一階で彼は『不審者に注意』の貼り紙にちらりと目を遣り、黙ってエレベーターのボタンを押す。ドアが開き、誰も居ないエレベーターに先に乗る。私は後に続いて乗って四階のボタンを押した。エレベーター特有の重い沈黙。四階で降りた途端に大きく息を吐いた私に、彼はくすっと笑った。
「エレベーターの中は酸素が薄いな」
「うん」
 そんな感じだ。バッグから鍵を探り出して部屋のドアを開ける。明かりを点けて、約半年ぶりに訪れた諒介は、いつもそうしていたように、キッチンの壁に寄り掛かって立った。
 『椅子に座れ』という事だ。肩を竦めて身を縮めながら椅子を引いて腰を下ろした。
 諒介は、何から話すべきかと考えているらしく、顎を引いて上目でどこかを見ながら指先で鼻の頭を掻いていた。
「…灰皿、要る?」
「ん、ください」
 灰皿を手渡すと、彼はシャツの胸ポケットから煙草を一本抜き出してくわえた。
「…話って?」
「ああ、うん」と苦笑しながら火を点ける。
「…先月、給料日の翌日。夜、…十一時前だ。どこに居た?」
 給料日の翌日。……という事は、買ったばかりのスカートを着て行って、会社の皆で写真を撮った日の……夜。
「どこに、…って…?」
 やっぱり落ちていたんだ。そして───
「…諒介は…どこにいたの」
「僕の質問に答えなさい」
「私の質問にも答えてよ」
「僕の質問が先だ、筋道を立てないと話にならない」
「そんなの関係ないでしょう」
「ある」
「何の筋道?諒介が言いたくない事を言わずに済むような?」
「───」
 諒介は眉根を寄せて唇を噛んだ。顔をそらして小さく息を吐く。「…じゃあ、僕から話そう。全て僕の推論だが」と煙草を挟んだ指を唇に当てて少しの間を置いた。
「……あの夜、おそらく君は遅くに帰宅し、そこのエレベーターで不審な人物と出会った。下の掲示板にも貼り紙があったし…、『エレベーターに人が乗っていた』という言い方からして襲われはしなかったと思うが、…まあ、不審な人物である事には間違いないな。行動が不審だから不審者と言うのだし」
 緊張感のある口調から、後半は呑気な口調に変わっていった。
「ここまでは問題ないだろうか」
「…うん」
「不審者に出会した由加は……落ちた、と思われる。落ちる自覚はあった?」
「………」声もなく頷いた。
「ん、落ちましたね」と頷いて目を伏せ、煙草の灰をとんとんと落とす。「…一方、その時僕は大阪の自分の部屋に居た」
「…本当に?だってあんなに真っ暗……」
「僕はちょうど台所で水を飲んで、パソコンデスクの方に向かって部屋を横切っているところだった。突然周囲が真っ暗になって……」
 きゅっ、と煙草の先を灰皿に押し付け、火を消す。背を丸め、灰皿を静かにテーブルに置いて、手を灰皿の横に突いた。振り向く彼の顔が私の目の高さにある。
「何事かと思った時、由加の声───悲鳴に近い声だったが、聞こえて…でも何も見えない闇だ。僕は文字通り闇雲に」灰皿に視線を落としてフッと笑う。「動いてみたところ、手に何か触れたので掴んだ。…本当なら手を引っ込めてるところだ。後はご承知の通り」
 ご承知の通り、と言われて私は俯いた。恥ずかしくて顔が上げられない。
「確証はないけど…状況から考えてみて、あの暗闇は、由加が落ちる際に出来る『空間の歪み』じゃないかと思う。つまり、」
 ふう、と小さく溜息を挟んだ。
「…僕も落ちたわけだ」
「………」
 ───諒介も、落ちた……
 私はゆっくりと顔を上げて彼を見た。唇を噛んで吸殻を見つめる横顔。ふいに諒介は振り向いて、「ごめん」と頭を下げた。
「もう落ちないと保証したのに落ちてしまった。嘘になってしまった」
「ううん」と首を横に振ると頭の中がかき回されて、混乱がひどくなっていくようだった。
「諒介も…落ち…た、って…どういう事…?」
「考えられるのは」
と、諒介は床に座り込んで壁に寄り掛かった。俯いたまま、前髪を掻き上げた手で額を押さえて、上目で私を見た。
「…『呼ばれた』、つまり由加に引っ張られたという可能性が高い」
「どうして…?」
「考えてもごらんよ」
 彼は膝を抱えて肩に頭を載せるように首を傾け、左目をきゅっと細めて苦笑した。
「僕も何度か見ているけど、由加が『落ちる』その時、由加の周囲だけが暗くなり、キャラメルが溶けるみたいに柔らかくなっているのが判るのに、僕が触ると何ともなかった…これまでは。由加はとろとろのキャラメルの渦に呑み込まれるように落ちる、その先はどうやら暗闇である、と…そこまでは既に判っていた事だ」
「…うん」
「ここで気になるのは、僕が呑み込まれたのはキャラメルの渦ではなかったという事だ」
「………」
「どうせならわたあめの方がいいけど」
「はあ?」
「いや、ふわふわしてるから」と言われて、かくんと顎が落ちた。
 ………やっぱり諒介はよく判らない。
「そうして思い出されるのは、由加が何度か『無自覚に落ちている』という事」
 そうだ。…歩いているうちに、また眠っている時に…落ちた事もあった。
「僕の場合は、突然ふっと真っ暗になった。…ブレーカーが落ちたのかと思ったくらいだ。落ちたのは僕だったが」
 くすっと笑う。つられて私もふっと笑った。
「なぜ僕が呼ばれたのか」
 ふいに低くなった声に、心臓がどくんと大きく鳴った。…どくどくどくどく…全身を血液がものすごい勢いで巡っているような気がする。
 顔を上げた諒介が、まっすぐに私を見た。
 鋭い視線に射抜かれて動けない。

 『和泉が怖いか』

 あの時と同じ目だ───

 『ここに居るのは誰なんだ』

 ───ここに居るのは誰?
 冗談を言って笑わせたかと思うと次の瞬間には強い眼差しで睨んでくる。

 『本当に諒介なの?』


 『本当の僕を知らないんだろう、と思うと逆に後ろめたい気分だ』


 ───本当の諒介。


 『隠したい事だってあるのよ』

 『……刺したの刺されたの』

 がくん、と椅子から滑り落ちた。椅子が捻れて倒れた。私を呑み込もうとする床───暗がりから諒介が手を伸ばしてくる。

 『ここに居るのは誰なんだ!』

 ───いや……
「……いや、触らないで!」
 体を丸めて両手で頭を抱え込んだ。ぎゅっと目をつぶると「チッ」と舌打ちの音に続いて何か叩くガンという大きな音と同時に彼が叫んだ。
「落ちるな!そこには何もない!」
 シンと静かになった。
 ざわざわ……とかすかな音。葉擦れのような……
 体が震えた。……怖いのと……寒いのと……。顔を上げる。
 目の前に椿の木があった。
 傍らに低木の植え込み……首を動かして辺りを見回す。水を止めた噴水……公園の出口の向こうに……見上げると、私の部屋の明かりは点いていない。
 マンション前の公園だった。
 落ちた───
 諒介が止めてくれようとしたのに、落ちた。
 頭の中がひどくぐちゃぐちゃだった。私はのろのろと立ち上がった。ストッキング一枚、足の裏に感じる舗道のタイルの角が痛い……

 『大丈夫。大丈夫…』

 痛い。
 痛い。
 痛い。
 公園の出口の所で涙を拭いた。部屋に戻ると、諒介の姿はなかった。