ネスト・オブ・ウエスト-3

「…和泉です」
 諒介はまだ少しぼんやりとしながら言った。そしてフッと笑ってこちらを向き、唇の前に人差し指を立てた。「どうも、お疲れさまでした」と言いながらメモ帳とペンを手に取って私の前に置くと、そこに『フルタ』と書いた。「わざわざ帰ってから電話…しないとだめなのか」と笑いながら言う。
「…うん。腹が立ってしまった。いや、澤田は悪くないんだけど」
 私はメモ帳に『けんかしたの?』と書いた。置いたペンを諒介が手にした。
「…うん。そう…うん。あ、やっぱりね」『ナイショ』
 きっと、また喧嘩したのだ。むうっと睨むと諒介は苦笑して目をそらした。
「…いや、それは僕も言えない、悪いけど」
 不意に口を尖らせる。やっぱり子供だ。
 それからしばらく黙って古田さんの話を聞いていた。かすかに、古田さんが何か話しているゴショゴショという音が聞こえる。やがて諒介は頷いて、
「そう、それは古田の言う通りなんだ。ただ…その、───え?」
 苦笑したり真顔になったりして聞いていたのが、突然びっくり眼になった。眼鏡を外し、手の甲で眉間をごしごしとこする。
「確かに、ここしばらく寝不足だったんだけど…本当に、それはない。ハハ、すみません。うん。…それは澤田にも何度か言われているけど、その、」
 眉間に当てたままの手の指の隙間からちらりと私を見たような気がして、何だ、と目で訴えた。諒介はくるりと壁の方を向いた。
「違う…」
 澤田さんの出張の間に、何か対立するような事でもあったのだろうか。それなら原因は仕事だろうか、それにしては様子がおかしい気もする。私が体を傾けて諒介の顔を覗き込もうとすると、彼はまた椅子をくるりと回して私に背を向けてしまった。私はテーブルの上のメモを丸めて、彼の背中にぶつけてやった。
 しばらくしてぽつりと言った。
「…判らない、今は」
 私は何度か聞いた覚えのある言葉に、椅子の上で膝を抱えた。
 そうだ、判らないから時間が欲しいんだ。
 時間。
 判らない。
 繰り返し思っているうちに、話を終えた諒介がスマホを置くと「まいった…」と背中を丸めた。
「何が」
「プリン食べる?」
「また話をそらす。澤田さんと喧嘩したの?」
「内緒」
「寝不足ってどうして」
と訊くと諒介はゆっくり頭を上げて椅子を回してこちらを向き、首を傾けた。視線がふらふらしている。
「それは…その、つまり…あれだ。うん」
「あれって」
「むう」と、また唇を尖らせ眼鏡をかけて「…その、まあ、普通は夜に寝るよね」
「そうだねえ」
「由加も、夜に寝るよねえ」
「うん」
「コーヒーでもいれよう」
 諒介はぷいと立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
 私が夜に寝るのと諒介の寝不足に何の関係が、と足を椅子から下ろして腕組みして考えた。私が眠って諒介が起きている。
 『由加の夢にお邪魔してます』
 『僕は夢を装って───』

 『由加の中にはちゃんとその理由がある筈だ』

 私は立ち上がって、ベッドの横の床にぺたんと座った。ベッドから綿毛布を引きずり下ろして、頭から被った。煙草の匂いがする。程なく、毛布の向こうで「わあ、何だ何だ」と声がした。
「どうしたの」
「何だか毛布を被りたい気分だったの」
「そうか」
「おかしい?」
「いいや?判るよ」
 そう言われたらじわっと涙が出てきた。
 今まで、諒介が理由もなく何かする事などなかった。だから、きっと理由がある。言えないのも待たせるのも全部。それが判ったら泣けてしまったのだ。
「毛布外してもいい?」
「…うん」
「除幕式」
と言って諒介はフンフンと何かの曲を鼻歌で歌った。するっと毛布が除かれると、彼は「やっぱり」と言って、ふにゃ、と笑った。毛布を畳んでベッドに置く彼に訊ねた。
「…夢で逢いましょうって言ったから?」
「普通、逆だよね。由加が来ないと目を開けていて、来たら眠るなんて」
 砂糖入れちゃったけどいいよね、とカップを差し出された。私はそれを受け取って俯いた。諒介も私の前に胡座をかいて、コーヒーを一口啜るとカップを横に置いた。
「由加。…里美さんの話ができるかな」
 ビクターの犬のポーズの諒介は、頼りなく笑った。「掴まる?」と軽く腕を動かして肘を示す。私はカップを脇に置いて、左手で彼の袖の肘の所をつまんだ。
「里美さんが由加をうらやましいって言った理由は?」
「よく…判らない。誰かにとって変わらないものがあるような…って、何の事…」
 体が震えてきて、私は諒介の袖をぎゅっと握った。
「白井さんが私を振り返…てたの判る…て…」
 息ができない。苦しさに声を上げて諒介を見た。
「里美知ってた、白井さんの事、どうしよう、」
 がくん、と足元が揺れた。「ああっ、」袖を引っ張られた諒介が傾いた。
  落ちる───
      暗がりから声が聞こえる───
「───やめて…っ」
「見なさい由加」
 諒介は床に肘を突いたまま、掌でバンと床を叩いた。カップが倒れてコーヒーが彼の手にこぼれた。「チッ」コーヒーはまだ熱い───
「諒介、」
 右手を伸ばした。ぐるり、と壁や天井が回って私はコーヒーの上に倒れた。
 ガチャン
 カップが皿とぶつかって転がる。
「あっ」
 不意に肩が床に沈みかけた。
 右の手首をぐいっと引かれて起こされた。私の手がカップを転がし皿をひっくり返す。
 ガチャン
「いや、やめて、放して」
「落ちるな!」
 目の前がぐらぐらと揺れて左手を床に突くと掌に固い感触があった。
「給湯室で何があった」
 え?と問い返す。ゆっくり起きあがって私を見る諒介の顔がかすんで見えた。
「…転んで…割れた湯呑みの上に手を…」
「白井さんと」
   パン
 頭の中で何かが破裂したような音がした。
 ───湯呑み茶碗が割れるような───
 『いや、放して』
「いや、放して」
「……」
「…里美…!」
 『これ以上里美を裏切れない』
 『君も彼女を裏切った』
 『やめて』
「…やめて───やめて…っ」
「……」
「───放し、て…」
 『放して』
 手を振り解こうと抗う。左手で何度も殴った。
 気が遠くなる。掴まれた手首が痛い。
 私は閉じかけた目を開いた。
 涙がぼろっとこぼれると、その向こうで諒介が私をじっと見ていた。
「いや、…見ないで、こっち見ないで」
 首を振って「見ないで、触らないで」と繰り返した。
「逃げなくていい」
 不意に諒介が手を放した。
「僕は白井さんじゃない」
「…?」
「ほら」と彼は両手を軽く挙げた。斜に私を見る。
 そうだ彼は白井さんじゃない。
 当たり前の事だった。
「約束を破ってすまなかった」
「約束って…」
「触らないと約束した」
 そうだった。諒介は正月に「もう触らないから」と言った。
 そしてその通り、彼が約束を破ったのは私が落ちるのを止める時だけだった。
 触らない意志表示。向けられた掌、それは白井さんじゃない。
「…彼とは約束した?」
「……」
「一度だけだと」
 『一度だけでいいの』
 『愛されていると思いたいの』
「…たった一度でも…私が里美を裏切った事には変わりないの…」
 私は震える体を自分で抱いた。
「判っていて裏切ったの───白井さんは何を望んでいたの…?里美が居るのに、どうして私まで手に入れようとするの…」
「一度手に入れてしまえば放せなくなる」
 諒介は手を下ろして胡座をかき、目を伏せた。
「由加の気持ちを知ってどうしても側に置こうと考える事もあるだろう。いや、白井さんがどんな人かは知らないけど」
と言って深い溜息を吐いた。
「彼の手がそれほどまでの脅威だったなら」
 眼鏡を外して目をこする。やがて掠れた声で「ごめん」と言った。
「辛い話をさせた」
 唇を噛みしめてじっと自分の足元を見る諒介をぼんやりと見ているうちに、私は気が付いて後ろへじりっと下がった。
 諒介は判っていたんだ。
 ブラウス越しにも冷たかった給湯室のブルーの壁の感触が背中に蘇る。私の上に落ちた白井さんの影。湯呑みの割れる音、触れてくる手、誰かに聞こえないよう声を落として「やめて」と言った。

 私はあなたの何なのですか。
 そんな目で見ないでください。

 カチャン
 振り返ると手元にコーヒーカップが転がっていた。私はこぼれたコーヒーの上に座っていた。服が濡れて気持ち悪い。脚を動かしてジーンズに付いたコーヒーの染みを見る。諒介の動く気配で彼を見ると、彼も自分のシャツの裾や膝に付いた染みの辺りをひっぱって見ていた。私の視線に気付いたのか顔を上げて、眼鏡をかけると彼は目を細めて頼りなく笑った。
「ああ、コーヒーだらけになってしまった。時計がベタベタだ」
と時間を見ながら腕時計を外し、「まいったな」と呟いた。「ほら」と差し出された時計を受け取ってデジタル表示の時刻を見た。
「…新幹線って…」
「すまないねえ」
「ううん…」
 諒介は、よっ、と言って立ち上がるとバスルームへ行った。しばらくして浴槽に湯を張る音が聞こえてきた。



 お風呂に入ったら出づらくなってしまった。コーヒーを洗い落として温まる間、「何でこんな事に」とぼんやり考えた。
 『裏切った』
 私は里美を裏切ったんだ。
 もう、繰り返し何度も思った事だった。それは判り過ぎる程、判っている。
 お湯の中で膝を抱えて、俯くと口までお湯に潜った。涙が次々と溢れてきて、私は顔をお湯につけた。このまま溺れ死んでもいいかも。口からぷくぷくと泡を吐いた。しばらくそうして、苦しくなって顔を上げた。死ぬのは簡単じゃない。
 諒介が大声で「おーい、生きてるかー」と、洗面所のドアの向こうから呼んだので、不承不承、あがることにした。温まり過ぎだ。目が回る。洗面所の鏡が真っ白になった。借りた服を着て洗面所を出ると、そこに諒介が立っていた。
「生きてたな」
 すっかりのぼせて口が利けない。答えずに彼の前を通り過ぎた。頭にバスタオルを被ったまま床にばたっと倒れた。床はひんやりとして気持ちいい。しかしのぼせて気持ち悪い。「由加」と声をかけられて「お水」と答えた。まもなくタオルの向こうにコップを置いたらしいコトンという音がして、ぺたぺたと足音が遠ざかった。私は寝転がったまま水を飲んで、またタオルを被ってじっとした。
 水音が聞こえる。
 窓から入り込む風がふわふわとタオルを揺らした。
 閉じた瞼の下で、暗闇がゆらゆらと揺れて見える。風が送り込んでくるかすかな光。
 私はゆっくりと右手を伸ばした。
 コトンと音を立ててコップが倒れた。こぼれた水がじわりと広がって私の頬の方まで流れてきた。私は水のせいにして泣いた。
 やがてまたぺたぺたと足音が近づいて、私の傍らに諒介が座ったのが判った。
「由加は隠れるのが好きなんだな。頭隠して後はどうでもいいのか」
と言ってフッと笑った。私はタオルの端を掴んで目を出した。濡れた髪の諒介が火の点いていない煙草をくわえてこちらを見ていた。
「起きてたか」
「うん」
 諒介がきょろきょろと見回しているので、私は「テーブルの上だよ」と指さした。「ああ、本当だ」と彼はライターを取って火を点け、ふうっと煙を吐いてニコッとした。
「そうだ、高橋君のプレゼントはどうだった」
「足跡ついてた」と答えると諒介は俯き、クククと笑った。
「ごめん、それ僕だ」
「えっ」
「澤田と二人で蹴っ飛ばした」
「何で」
「面白かったから…いや、そうじゃなくて…」とまたクククと笑い、手にした灰皿に向かって言った。「澤田が蹴りくれてたからつられてしまった」
「……」
「澤田と何かあった?」
 私はまたタオルを被って黙った。彼が小さく笑う気配がした。
「澤田は由加をよく判ってるよ。由加が何を喜ぶか奴は知っているから蹴っ飛ばした」
 以前、澤田さんが「和泉は由加の事、よう判ってるやんか」と言ったのを思い出した。私は急いでタオルを除けた。
「…諒介は?」
「血圧計をあげても喜ばないでしょう?」
「…うん」
 二人はそれぞれに「奴は由加を判っている」と言う。そして話を聞くとその通りだと思う。けれど私は二人がよく判らない。そう言うと、諒介は「うーんと」と少し考えた。
「由加は自分で思うより僕らの事を判っているよ。澤田を詩人だと一言で言うけど、それは澤田の本質をちゃんと掴んでいるからだ。僕…の事はそうだな…、まいったな」
「何が?」
「そう」と言って煙草をくわえた。
「まいっちゃうんだ。見抜かれていたり、気付かされたり。僕自身でも知らなかった事さえ」
 灰皿に向かって話す諒介は頼りなく笑った。私はそれを、目を見開いてじっと見た。
「…私もそうだよ」
「澤田もそうだろう。人と人って、案外そんなもんだ、と最近思うようになった」
「ふうん…」
 諒介は灰皿に煙草の灰をトントンと落として私を横目で見た。
「僕はいろんな事を知りたいと思うし理解したいと思うから、人をよく見ようと思っているけど、僕がまいってしまうのは、由加が思いがけない角度から僕を見ているという事」
「……」
 何だか恥ずかしくなった。私はタオルで顔半分を隠した。
「…うん。思いがけず人に見られている。思いがけず自分を知る人が居る、人と人って案外そんなもんで、自分で思うよりずっと誰かと繋がっているんじゃないかと思う」
「…橋で?」
 私が訊ねると、諒介はふにゃっと笑って「橋か」と呟き、前髪を掻き上げた左手を止めた。寝転がっていた私からは、蛍光灯の明かりの下で陰になった掌や腕の内側が青白く見えた。暗い、と思って、私はその左手を、もっとよく見ようと起き上がった。諒介が私の視線に気付いて目を丸くした。
「何?」
「…それ」
と私は目で示した。諒介は横目でそれを見て、下ろした手を背中の後ろに回した。
「…どうしたの…」
「……」
 私は彼の答えを待った。
 沈黙の長さに耐えきれなくなった煙草の灰がぽろりと落ちた。