ネスト・オブ・ウエスト-1

 夕方に訪ねて来た澤田さんは「お土産」と言って紙袋を差し出した。
「言うとくけどな、それは高橋君からやで。俺やないで」
と真顔で言うので何かと思った。
「…高橋君って誰?」
「高橋、報われない奴」
 大阪への出張の帰りに寄ったのだから疲れているだろう、とあがってもらった。冷蔵庫からペットボトルの紅茶を取り出すと澤田さんは「俺がやるわ」と私からそれを取り上げ、自分でコップに注いでぐーっと飲み干した。紙袋を覗き込むと、アザラシのぬいぐるみの顔の周りと、ペンギンのぬいぐるみのお尻の周りに、それぞれピンクのリボンがかかっていた。
「何、この謎の感覚」
「せやから高橋君から由加に貢ぎ物。くれぐれもよろしく、やて」
「…誰だっけ…」
「和泉の所の奴や、この前築地に来た」
「ああ、あの変な人」
 人気俳優みたいな髪の、いかにも今時の男の子で、ニコニコして私の事を可愛いと言ったのだった。思い出すと恥ずかしい。何となく俯いて見下ろしたアザラシの頭に靴跡がついている。「これは?」と訊くと澤田さんは「知らん」と横を向いた。
「あ、こっちはお菓子?大阪銘菓って何?私、初めて」
 包みを開けて呆然とした。
「…おたべって大阪だっけ…」
「いいや…」
 キッチンの椅子に腰掛けた澤田さんは二杯目の紅茶を注ぎながら眉間に皺を寄せた。私は紙袋を畳もうとして、底の方に数枚のポラロイド写真が入っているのに気付いた。左手を紙袋に突っ込んで取り出した。
「…仮装大会でもあったの?」
「はあっ?」と叫んだ拍子に澤田さんの口から紅茶の飛沫が飛んだ。「仮装て何や、おまえも謎の感覚やな」と笑いながら布巾でテーブルを拭いた。
 問題の写真は新幹線の車内から撮影したらしく、車窓の手前に古田さん、外のホームに迷彩柄の服を着た件の高橋さん、その隣には緑のポロシャツにキャップを被っている…確か河上さんという人、そして赤いマウンテンパーカのフードを被った諒介が写っていた。私は一人一人を指さしながら言った。
「コマンドーと、プロゴルファーと、赤ずきんちゃん」
 澤田さんはテーブルに突っ伏してしばらく肩を震わせていた。密かに笑い上戸の澤田さんは、こうなると当分話し相手にならないので、私は彼が笑い止むのを待つ事にした。テーブルに写真を広げる。誰が撮ったのか、古田さんと澤田さんが並んで写っているのもあった。知らない人と諒介。ボールペンを口にくわえてマシンに向かう諒介。ピースする高橋さん。緑に囲まれた白い建物。
「これが諒介の会社?すごい、広い、きれい」
「それが和泉のおる小さい方の。六階建てのもあるで」
「ふうん。社内で迷子になりそう…」
「それは由加だけやろ」
「会社にこんな庭まであるの?」
「え?」
 それはピースする高橋さんの写真だった。赤いアロハに丸いサングラスでどこのリゾートかと思うような格好の彼の周りの風景は、噴水とその周囲の花壇の花がきれいな、どこかの公園のような所だった。印象の通りに言うと、澤田さんは「公園や」と言って笑った。なあんだ、と再び眺めて、ふとベランダの向こうを見た。
 マンションの向かい、坂道脇の公園は斜面に造られたため、遊具や幼児用プールのある坂下と、噴水や花壇のある休憩スペースの坂上を階段で繋いだ公園で、私や諒介は「二階建ての公園」と呼んでいる。その二階に当たる所と、写真の公園が似ている事に気付いたのだ。
「あっちの会社の近くにあんねん」
「ふうん…」
 また写真に目を落とす。花壇の花は白と紫だ。そこの公園と言うよりも、いつか夢で見た公園に似ているかもしれない……
 それは不思議な夢だった。ベランダの向こうの公園によく似た所、という印象しか残っていないのだが、そこで私は諒介に出会ったのだ。彼は「由加の夢にお邪魔してます」と言って、花壇の柵に腰掛けていた。彼の隣に腰掛けていろいろ話し、目覚めると私は勝鬨橋のたもとの隅田川テラスに居た。
 白昼夢。
 その前後の出来事を私は覚えていない。
「澤田さん、この写真、貰っていい?」
「全部やるわ。…由加。俺より高橋君の写真が欲しいんか」
「えっ」
 澤田さんはへの字口になって頬杖を突いてぷいと向こうを向いた。私は居心地が悪くなって、テーブルの端に両手でつかまってその場にしゃがみ込んだ。隠れたかったのだ。
 テーブルの下の澤田さんの脚を、長いなあ、と感心して見た。彼は背が高いのだから当たり前だが、私はただでさえ低い背を更に縮めるように肩をすくめた。じっと脚を見ているのも何だか恥ずかしかったので、そっと目だけ出してテーブルの上を見た。
 澤田さんは頬杖を突いたまま横目でこちらを見ていた。
 ニヤニヤと笑っている。
 慌てて頭を引っ込めた。
 そうしていると、澤田さんはいきなり「つむじっ」と言って私のつむじをスコンと突っついた。「イタッ」と思わず声が出て、私は頭のてっぺんを押さえて顔を上げた。
「何するのよ」
「つむじは見飽きたの」
 さて、と彼は立ち上がり大きな鞄を肩に提げた。靴を履く彼に「何のおかまいもしませんで」と言うと「ほんまや」と言われてしまった。ぱたんとドアが閉まって、私は「はあ」と息を吐いた。どうも勝鬨橋の白昼夢以来、私は時々、澤田さんが苦手なのだ。
 澤田智彦は私の勤め先の人で、私と彼ともう一人、大阪の和泉諒介の三人は、彼らの同僚の古田さんに「離れていても互いに存在を感じ合う三人」と言われるような、不思議な縁で結ばれている…らしい。澤田さんは今年の始めに私が給湯室で怪我をした時や、その後に私が会社から姿を消した時───私は覚えていない───にも、私の事をずいぶんと心配してくれた。そんな人を苦手だと思ってはいけないのは判っているのだが。
 先月の勝鬨橋での出来事を思い出すのも恥ずかしくて涙が出そうになり、私はペンギンのぬいぐるみを抱えてごろごろと床を転がって、起き上がるとペンギンに右手でパンチを喰らわせた。ペンギンはころりと転んで止まった。
 考えたくない。
 私はまた寝転がって、足元にあったペンギンを蹴飛ばして遠くへ追いやった。ペンギンに罪はない。高橋さんが嫌いなんだ。親切な人だけど。右手が上手く使えない私の代わりにたくさんの封筒を持ってくれた。でも嫌い。素直な人だけど。私の事を粗忽と言って、手の怪我の事を知ったらすぐに謝った。でも嫌い。
 嫌い、はとてもいやな感情だ。それが自分にある事が、もういやだ。
 涙がぽろぽろと出てきた。
 部屋の隅に、澤田さんに貰った魚のランプが見えた。しばらく灯していない魚から目をそらした。
 澤田さんはいい人だ。でも、いやなんだ。
 ───自分でもどうしていいのか判らない、矛盾の真ん中が縺れた感じだった。それさえ、以前澤田さんに言われた事だ。
 私は立ち上がって紅茶を湯呑みに注いだ。腹の立つおたべの箱を開けて、おたべを三つ一度に手にして口に入れる。おたべに罪はない。だから食べるが、目の前にあるのがいやだった。



 おたべが夕飯になってしまった。食べ過ぎだ、気持ち悪い、と思いながら部屋中を転がって、ふと思い立って洗面所の体重計に乗った。
 まさか重力が増した訳ではないだろう。
 仕事を休み始めてから、連休は部屋で映画のDVDを観て過ごし、外に一歩も出ない日もあった。私は「まずいぞ」と独りごちて部屋の中を競歩でぐるぐると回った。どうせ運動するなら外を走るべきだが、暗くて怖いなと考えた時、スマホが鳴ったのでびくっとした。着信、『飯島里美』の表示と、「飯島です」の声にほっとした。
「里美?何か久しぶりだね」
「うん、このところ忙しかったから、私」
 里美は私が以前、人材派遣会社に登録していた頃の派遣先で知り合った友人だ。彼女は「映画の試写会が当たったんだけど、一緒に行かない?」と言った。私の好きな女優が主演の新作だそうだ。私は「絶対行く」と答えた。
「どうせ暇はいくらでもあるもの」
「何で?」
 そこで、私はこれまでのいきさつを大まかに話した。里美は怪我の話に驚き、ひどく心配した。
「うん、大丈夫…仕事が…出来ないだけ、で…」
 じわっと涙ぐんで、慌てて目をこすった。里美はそれに気が付いたのだろう、明るい声で言った。
「試写会終わると遅くなるから、うちに泊まりに来ない?私、最近料理に凝ってるんだ」
「へえ、料理」
「お料理教室行ってるの。もう、誰かに腕前見せたくてさ」
「うん、楽しみにしてる…でも何で急に料理教室なんて」
「うん、結婚するんだ」
「えーっ」と思わず叫んでしまった。
「最近忙しかったのは、そういう訳なんです」
 里美はウフフと笑った。
 何て言えばいいのか判らない。
 何かに追い立てられるような焦燥感が、じわじわと迫ってきた。
 結婚と聞いて思い出したのは、会社の人達だった。私が所属していた入力室の飯塚さんと隣の開発部の中嶋さんも、この秋に結婚を控えている。私より一つ年上の飯塚さんは結婚と同時に退職する予定で───いや、そういう焦りではない。
 会社を辞めて実家に帰ると言ったら澤田さんが「俺の所に居ろ」と言った───いや、それでもない。
 そう、澤田さんが新しい仕事を受けて大阪へ行った。そこでは諒介も同じ仕事に参加している。その諒介が本当にやりたい仕事を選んで東京から大阪へ移ったのは一年前の事だ。
 『僕の居る所で、僕自身がどうあるか、…どう生きるか、という事を───』
 諒介の前には未来が見えている。
 望む生き方、という未来が。
 私にはそれがない。
 怪我で動かない右手を治して、仕事に復帰して、と考えてはいるが、どんな生き方ができるのか、私に何ができるのか、それは漠然としていてまだよく判らないのだ。
 里美の結婚にしろ料理教室にしろ、未来が見えている。家庭を、幸福を築く、未来。
 また置いていかれる───私だけが部屋の中で足踏みをしているようだ。
「…由加?もしもし?」
「あ…ごめん、ぼーっとしちゃった…」
「大丈夫?」
「うん。里美が幸せそうだからあてられてしまった感じ…」
 私はベッドに腰掛けて、枕元の壁に掛けたコルクボードを見た。里美からのニューカレドニアの海のカードと青い富士のカード。
「───私ね、あれから、」
 不意に里美は声を落としてぽつりと言った。あれから、とは私が里美の会社に行っていた頃に彼女が付き合っていた白井さんと別れてから、という意味だとすぐに判った。
「どうして彼が私を北海道に連れていかなかったのか、考えたの。それで、もしも一緒に行こうって言われたら、って考えたら…多分、行かないって答えたと思う」
「…どうして」
「ずっと一緒にいられない予感があったから…」
 胸がぎゅうっとした。里美の声は静かで、胸の底に重く滴るようだった。
「…そんな気持ちが少しでもあると、だめなのね。ずっと一緒にいられるって、信じられなかった。だから彼についていく自信もなかったし、彼もついて来いって言わなかったのは…」
「……」
「…彼の送別会の時に、池袋の駅で偶然会ったね。由加は休日出勤だったっけ?何か疲れてるふうだったけど、相変わらず仕事頑張ってるんだなあ、って思った」
「ああ、あれは…」
 私の特異体質───なぜか私の周りに起こる不思議な出来事に驚いて、諒介に助けを求めて会社まで飛んで行ったのだった。里美に感心されるような事ではない、そう思うと恥ずかしかった。
「由加から電話貰ったの、そのすぐ後だったね。駅で会った時も思ったんだけど、会って話して、由加が変わってなくて、嬉しかった。誰にも言えなかった事、由加には安心して話せて、私も由加みたいに、誰かにとって───由加にとってもだけど───変わらないものがあるような、そんなふうになりたいなと思った」
 耳を疑った。
「白井が由加を振り返っていたの、判る…」
  カチッ
「…仕事出来るくせにボケかますしさ?」と里美は笑って、
「目が離せないの。私、由加がずっとうらやましかった」
  カチッ
「…由加?」
  カチッ
「ああ、ごめん、びっくりしちゃって…」
「ふふ、びっくりしたであろう」
「…まいったな…」
 そう言いながら、諒介の黒縁眼鏡の奥の目が頼りなく笑うのを思い出した。
 試写会の日の待ち合わせを決めて電話を切った。
 今のは何の話だったのだろう。私は呆然と握ったスマホを見つめた。『和泉諒介』の名前を押す。誰かに訊きたくてたまらなかった。
「はい、和泉です」
「諒介」
「こんばんは」
 穏やかな声だ。彼ならきっと教えてくれる。
「今のは何の話だったの?」
「え?今のって…」
「里美が私を───」
「…里美さんが?」
「里美が私を、うらやましいって…」
「───里美さんがそう言ったの?」
 突然、彼の声は固くなった。
 そうだ、彼は知っている。私が里美をうらやましいとずっと思っていた事を。
 私は立ち上がってふらふらと歩き、壁に手を突いた。眩暈がする。
「私みたいになりたいって何?白井さんが私を振り返───」
 知っていたのか。
 白井さんと私との事を。
 いや、と叫んだ。涙がどっと溢れた。
「由加、」

 『君も彼女を───』
 『ずっと一緒にいられるって、信じられなかった』

「いや、いや」

 ずうっと一緒。

「私…、違う、」
「落ち着け」

 『由加が変わってなくて、嬉しかった』

 『誰かにとって変わらないものがあるような』
 ───諒介。

 ああ、と叫んで転んだ。足元が真っ暗だ。フローリングの床が溶けたキャラメルのように、ぐにゃぐにゃと私の足を捕まえて引っ張った。
「いや、落ちる」
「由加」
 私は玄関まで逃げようと腕で進もうとした。

 諒介がいない。

 壁が、床が、戻らない。
 手が届かない。

 肩まで床に沈んで悲鳴を上げた。玄関が遠くなった。
 チッと舌打ちが聞こえた。
「由加、聞こえるか」
「助けて諒介」
「よし、何も考えるな」
 諒介は冷静を装った早口で言った。鋭い大声に私も焦った。

「だめ、落ちる───」



「由加、僕はここだ!」



 ここ、でバンと音がした。



「来い!」



 目の前が真っ暗になってスマホを落とした。