ドリーム・プレイヤー-6

 部屋に戻る道に、坂の脇の公園の中を選んだ。
 昼に見た夢とはやはり違う、噴水の周りの花壇の花は白と紫の他に黄色もあった。噴水の水の噴き出す所も形が違う。歩道のタイルはよく似ているが、そこを取り囲む外周の三段のステップが夢の公園にはなかった。その向こうの木もこちらの方が少なく、道路に駐車した車が見える。夢なんていい加減なものだと思いながら私はマンションを見上げた。夢のせいか、諒介と話がしたかった。魚のランプの灯る部屋に戻って夜が更けるのを待ってから、私は諒介に電話をかけた。スマホに表示される『和泉諒介』の名をタップする指が震えた。
「和泉です」と出た諒介に、由加です、どうも、と言いながら壁に向かって頭を下げた。
「……」
「……」
 夢で用事を済ませてしまった気がするので、何から話せばいいのか判らなかった。
「…今日の昼間、澤田から電話があって、由加がまた消えたと言われて」
「澤田さんてば…」
 恥ずかしくなってまた壁にお辞儀をした。
「それは…散歩してたら会社に戻るのが遅れてしまったの。お騒がせしました」
「散歩か」
「ごめん」
「それで、記憶が途切れていたりとかは」
「…ないよっ」
 明るく言おうとしたら声がひっくり返った。電話の向こうからクククと聞こえた。
「で、どのくらい途切れているのかな」
「…勝鬨橋の、勝どき側から築地側に戻った筈なんだけど…」
「勝鬨橋からか」と言うと彼は何か考えているのか、しばらく黙り込んだ。「それで、すぐ澤田に会えた?」
「澤田さんはどのくらい探したのか言わなかったけど、私が隅田川テラスで気が付いた時には橋の上に居て」
「そうか。電話の間が一時間なかったから…。入力室の昼休みから一時間として…探したのは三十分弱かな」
 私は昼間の出来事を思い出してかーっと赤くなった。眉間の辺りがじんじんする。眩暈がしそうだった。
「諒介、あの…夢…」
「夢?」
 どう切り出そうかと迷っていると、「また面白い夢でも見た?」と訊ねられた。私は「諒介が私の夢にお邪魔しますと言って」と話して聞かせた。彼はクククと笑った。
「面白い。それも『バンドエイド・ブリッジ』に書くといい」
「……」
 怪我をして以来、私は書きかけの小説を放り出したままだった。手が使えないよりも、考える事ができなかったのだ。ずっと余裕がなかった感じがする。
「それで、その夢の前後を覚えていないんだね?」
「うん」
 ふーっ、と溜息が聞こえた。「由加、あの、」と言いかけて黙り込む。
「僕は…」
 また黙ってしまった諒介に驚いた。彼が黙り込むのは珍しくないが、主語が『僕は』だったからだ。
 諒介が自分の事を話そうとしている。きっと眼鏡を外して目をこすって。私は身動きもせずに次の言葉を待った。小声で「その、」と聞こえて緊張した。「澤田が───」と言ってまたふうと息を吐くので、その場にぺたんと座ってそっと深呼吸した。
「いや、その、由加に時間をくれと言って、待たせたまんま、もう…その、考えている間に次々と…」
 次々と。
 そうだろう。諒介が「待って欲しい」と言った元旦には、今日のような日が来るとは───そんな日を呼ぶ出来事がいくつも起こるとは思っていなかった。
 最近、楽しかった事。お正月。
 諒介と澤田さんと三人、料理をして、新年のカウントダウンをして、お酒を飲んで、…その後、私が『居なくなった』けれど、諒介は私に「自分を切り離してしまわないで」と言った。三人で出かけた初詣も楽しかった。
 つーっと涙が頬を伝って落ちた。諒介に気付かれないように息を殺した。
「澤田がね。由加を泣かせているのはおまえじゃないのか、と言ったんだ」
「え?」私は、ばれたか、と慌てて頬を拭った。
「僕は、その通りだと思っている」
「……」
「その、もう少し…時間があれば」
「あ、あの、澤田さんがね」
「はい」と諒介の声がひっくり返った。
「時間は作れるって言ってたよ。それで、諒介に教えてやれって」
「…澤田が?」
 うん、と答えると彼はしばらく黙っていたが、フッと笑って「そうか」と言った。
「時間は作れるのか。そいつは盲点だったな」
「うん。そんで会社サボって時間作って遊びに行った」
「はは、そうだったのか」
 諒介の声がいつもの調子を取り戻したので、私はほっとした。
「由加。市川さんにお兄さんの事は話した?」
「うん、それでチーフが退職じゃなくて休職するのはどうかって…あれ?私、話したっけ?お兄ちゃんの事」
「聞いたよ」
「…あれ?」
「寝惚けてる?」彼はクスクスと笑った。
「ばっちり目は冴えてると…自分では思っているのだけど…」
「大丈夫。もっと自信を持ちなさい」
と言いながら、まだ笑っていた。
「はっきり決まったら知らせて」
「判った」
「それじゃ、もう遅いから。おやすみ」
「おやすみなさい」
「またね。夢で逢いましょう」
「え?」
 今何て言ったの、と訊いている間に、ふっ、と電話が切れた。
 聞き間違いでなければ、
 夢で逢いましょう。
 『由加の夢にお邪魔しています』
「まさかぁ?」と独りごちてスマホを置いた。深まる諒介の謎。



 翌日の昼休みに五階の休憩所を覗いてみた。案の定、澤田さんは古田さんと中嶋さんと一緒に紙コップのコーヒーを飲んでいた。
「休職か。残すと教室に残されて」
「みんな俺を置いてドッヂボールに行ってまうねん、ってそれは給食」
「プリンが残ると争奪戦になったねえフフフ」
 私はテーブルの脇に立ってトリオ漫才を見下ろした。ちらり、と上目で私を見る澤田さんは苦笑いだ。私も笑いがひきつった。昨日の事のせいで気まずい。なるべく古田さんの方を見るようにしてチーフの話をした。「もう決めたの?」と訊かれて「あとは家族の説得のみ」と答えると笑われた。
「休むなら実家の方が楽なんじゃないの?」
「ええって、東京におれや。なあ?俺がいろいろ教えたる」
「本当?」
「そらもう手取り足取り腰取り」
「腰は取らなくていいから」
「あ、どこが腰だか判らん寸胴やった」
 澤田さんの脳天に左拳を振り下ろした。「痛いわ」と彼は頭をさすりながら横目で私を見て笑った。今度はいつもの笑い顔だった。
「市川さんも気にしてたからねえ。泉ちゃんをうちに引き留めたのは彼女でしょう?それでうちで怪我してしまったからね。だから、休む事に対しても前向きになってくれたのは彼女も喜んでいると思うよ」
 古田さんは目を細めてにっこりした。
 知らなかった。
 私が人事部に異動にならなかったのも古田さんの口添えがあったから、というのを思い出した。
 ここは築地の街。
 古い家々の屋根の向こうに空を突くビルが見える、時がマーブル模様を描く街。
 角を曲がると、ふいに誰かの優しさが覗く。
 私が働いているのはそんな街なんです。



「今の仕事が好きで、仕事を続けたいの。それを待っていてくれる人もいるから、帰らないでこっちで休んで、他の仕事もできるように勉強するつもりなの。もう先生もいるし」
「待っていてくれる人って」
「職場の人達」
「先生って」
「友達」
 帰宅してすぐ静岡に電話をかけた。母は「うん、うん」と聞いていたが、「ちょっと待って」と兄に代わった。我が家で最も弁の立つのは兄なのだ。
「由加、その職場で」
「お母さんひっくり返ったらお兄ちゃんのせいだからね」
 そこは築地の街。
 私が力を蓄えるなら、こんな優しさを蓄えたいのです。
 諒介が夢で訊ねた「由加は何をどうやって決める?」という問いの答えだった。
「今の会社が好きなの。そう思える会社って今までなかった。休みの間に一度帰るから」
「ちょっと待て」と兄は送話口を手で押さえたらしく、声がくぐもって聞こえなくなった。兄はしばらく両親と何か話していたようだったが、今度は父に代わった。「もしもし」と静かな声だ。私は富士の方角に頭を下げた。
「お父さん、お願いします」
「…好きにしなさい」
 また兄が出て「言っとくけど兄ちゃんのお陰だぞ。肝に銘じておけ」と言った。私は、言われなくても判ってる、と思った。子供の頃から喧嘩ばかりしていても、いつだって兄は私の味方だったのだ。
 『帰る所があるのはいい』
 帰る所があるから、私はここで頑張ってみようと思う。
「本当に、大丈夫だから」
「…もしだめだったら首に縄着けてバイクで引きずって帰るからな」
 電話を切って、今の会話を聞いた事がある、と気が付いた。
 『僕は大丈夫だから』
 『しばらく好きにさせてください』
 諒介が正月に金沢のお母さんにそう言ったのだった。
 兄に言わせれば、親が子供を心配するのは当然で、「大丈夫」はそのたびに答えるようなごく普通の言葉だと思う。そしてまた、そのたびに親は子供の好きなようにさせてしまうのだ。
 私はその時の、目を閉じて「大丈夫」と言った諒介の顔を思い出して、「大丈夫」と声に出した。
 私達は、大丈夫だ。



 考え事をしながら入力室のドアを開けると、佐々木さんが私の顔を見るなり「どしたの泉ちゃん」と目を丸くしたので、「何が」と訊ねた。「ここ」と彼女は自分の眉間を指さした。私はぱっと眉間を抑えた。「やだな、もう…」
 あれから夢を見ていなかったのだ。諒介のせいではないけど、「夢で逢いましょう」の意味を考えていたら眉間に皺が寄ってしまった。
 彼女は椅子の背凭れをキイと鳴らして「ここんとこ、」と苦笑混じりに言った。
「ふらっと居なくなっちゃったり、みんな心配してるのだよ?何も言わないけど。それ判ってる?」
「…うん」
「うん。泉ちゃんはそれが判る子だよねえ。判っててそうなっちゃう、てのに私は疑問を感じていてさ。だからみんなが来ない今のうちに、ずばりと訊いてしまうけども」と、佐々木さんはボールペンをマイクのように私に向けた。
「澤田さんと何かあったでしょ」
「…何で判っちゃうの」私は赤面したのが判って俯いた。
「会社抜けて、そんで戻って来たり来なかったりっていうのは、会社に何かあるとしか思えないもん」
「…それで何で澤田さんに限定するの」
「泉ちゃんが居なくなる時は澤田さんとセットだもん」
 思わず納得、そしてがっくり。私はデスクの脇にしゃがみ込んで、「みんなには内緒だよ」と前置きして、山口さんの事を話した。
「それで、その時は私がどうにも呆然としてしまったので、澤田さんが面倒見てくれたの。この前は…ちょっと散歩していたら呆然としてしまったらしくて、戻れなかったところを澤田さんが探しに来て…」
 以下は省略した。何かあったのはそこだ。
「呆然と、ねえ…」
 佐々木さんはペンで額をコリコリと掻いた。
「覚えてないのか、怪我ん時みたいに」
「うん…」
「判った、もうすぐ誰か来るから泣くな」
「うん」私は目をこすって鼻を啜った。
「もう一つ疑問なのがさ、怪我した次の日よ」
 どきっとした。佐々木さんは真顔だ。
「消えた泉ちゃんを探しに出るなら入力の人間でしょう。それが何で開発の二人なの」
「諒介が二人を指名したから」
「和泉さんが?」
「私に何かあったら諒介の所に連絡がいくの。私がこんなんなっちゃって、諒介が古田さんと澤田さんに私を任せてるの。私の事を決めるのは諒介だよ」
「和泉さんが決めるの?何でそういうシステムになってるの」
「諒介は私を知っているから」
「知ってるって何を」
「実はこういう事、諒介がこっちに居た頃からなの」
「…そうだったんだ」
「内緒だよ」
「判った。…ふうん、澤田さんが連絡して、和泉さんが指示するのか…」
 佐々木さんは大きな目を見開いてまっすぐに私を見た。「なるほど、和泉さんはほんとに勇者な訳だ。姫の途切れた記憶を探る旅か…いや、」と横目になってペンで頬をつつきながら、
「勇者は澤田さんか」
「え?」
「RPGで言えばね。和泉さんがコマンド指定して澤田さんが動く。…だけど…それじゃシナリオはどうなるんだ?謎自らが書いて記憶喪失、その上勇者が…うーん」
「なあに、さっぱりわかんないよ、ホームズさん」
「へえ?」ホームズと呼ばれて、佐々木さんは照れくさそうに笑った。
 連休前で仕事の量が増えている。けれど焦る気持ちがないのは休むと決めたからだろう。気がつくと手も震えておらず、落ち着いてキーを叩いている自分が居る。心地好い緊張感。
 原稿の束を取り替えて、デスクに戻る時に山口さんと浜崎さんの後ろを通って様子を見た。先週末に席換えをして、山口さんの隣に飯塚さんがついている。これからは判らない事は隣の席の先輩に訊いて学んでいくのだ。私は浜崎さんの隣の席についた。時折「すみません」と訊ねられる。一つ一つに答えながら、穏やかな気持ちになってゆく。休憩時間にトイレで泣こうとはもう思わなかった。ブザーが鳴って午前の休憩に入った。
「泉さん」と浜崎さんに声をかけられた。質問かな、と思いつつ振り向いた。浜崎さんは「あの、これ」と練習用のテキストのコピーを私に向けた。
「誰の何て本ですか?いいな、と思って。読んでみたいから」
「……」
 私は微笑む浜崎さんをじっと見た。
「好きだな、こういうの。泉さんがわざわざ探してくれたんですよね?ありがとうございます」
「…それは…」私はさりげなく目頭を拭って笑いかけた。
「開発の澤田さんが教えてくれたの。澤田さんて密かに文学青年なんだよ。良かった、気に入ってもらえて」
 浜崎さんのデスクに置かれたコピーの文字を見る。
 『どんなよろこびのふかいうみにも
  ひとつぶのなみだが
  とけていないということはない』
 良かった。インストラクターをやらせてもらって。
 今度、夢で諒介に逢ったらそう言おう。



「俺が選んだ本や、当然でんがな」
 澤田さんは「でんがな」の部分に力を入れて言い、夜空を仰いだ。
「照れてるでしょ」
「フン、誰が」
 柳の枝がさわさわと揺れている。昼の暑さが過ぎて夜風が心地好い。築地川公園をゆっくり散歩しながらの帰り道だ。
「良かったな」
「うん」
 今日の昼休みには、休憩室で昼食を採りながら、連休を機に休職する事も皆に話した。新人さん二人は驚いていた。山口さんは俯いてしまった。それを見たら、もういい、と思った。
「連休にね、佐々木さんがうちに遊びに来るの。森さんも誘ってみるって」
「ほー。ええな、おもろそうな顔ぶれ。俺も行こかな」
「う、うん…」
「何や…」と澤田さんはポケットに入れていた左手を出して、私との間の空間で手をぷらぷらさせた。
「ここに妖精さんの見えない30センチ定規があるような…」
「そんな。気のせい、気のせい」
と否定しつつ、澤田さんが一歩こちらに寄ると私も一歩逃げてしまう。彼はフッと苦笑して、遠くを見ながらぽつりと言った。
「バレンタインはほんのご挨拶やったな…。由加にとって俺は所詮ドラえもんなんや。カレーパンマンの和泉に比べたら」
「そんな、諒介と比べたりなんかしないよ」
「俺なんて…背も高いし男前やし料理も上手いのに、何で奴は『諒介』で俺は『澤田さん』やねん…」
「…『澤田』?」
「おい」
 橋の脇の出口から通りに出て、新大橋通りへ向かった。外灯の作り出した影が後ろから私達を追い越して先に行き、長く伸びる。澤田さんはこちらを見ずに、また両手をポケットに入れて歩いていた。
「なあ、由加。和泉の言うた『待っとれ』て、どういう意味や」
「……」
「おまえ、ずっと待っとって、そんで泣くんか」
 私は目の前に伸びた影が薄くなっていくのを見ながら考えた。
「待たされて泣いてる訳じゃないよ。待ってる間の自分の非力さを思い知らされてるだけ…」
「奴が何を言おうとしてるか知っとるか」
「私達は、何を言おうとしているのか、今、探しているんだよ」
「……」
「だから、私達が何を待っているのか、言えないんだ。探しているから」と言いながら私は澤田さんを見上げた。「それは判って」
「ふん…判った…。何やろな、それが見つかったらどうなるんやろ」
「わかんない…」
 新大橋通りに出て立ち止まった。築地駅と新富町駅へ別れる所だ。それじゃ、と行こうとすると澤田さんが「由加」と呼び止めた。
「それが何なのか、怖くないんか」
「……」
「もし怖い事あったら言え。…そんだけや」
 彼は少し困ったような顔でそう言うと、くるりと背を向けて歩き出した。
 勇者の背中だ、とぼんやり思った。
 佐々木さんに言われてみて初めて気付いた。正月に三人で見たテレビのように、諒介は箱の中の私を見ているみたいだ。夢に現れたり待たせたり、知ってる事を黙っている。澤田さんさえ、何も知らない。
 漠然とした不安が広がってゆく。
 でも、それは言わない。
「大丈夫だから…」
 『僕を信用して』
 目の前が滲んで、車のライトや信号の赤が目の中に広がった。

"THE DREAM PLAYER" April*July 1998

← index || afterword