ドリーム・プレイヤー-5

 月曜日。朝のミーティングを終えて席に戻る。兄の言葉を思い出すたびにキーを叩く手が止まった。
 『今の仕事にこだわる必要はないし』
 けれど他に何が出来るだろう、と考えると不安になる。他の仕事などした事もない。
 『東京に一人で居る事はないの』
 ぼんやりと原稿を見ていると、原稿の束を持って歩いて来た飯塚さんが小声で「どうしたの」と話しかけてきた。大丈夫、と答えて再び手を動かした。薄いバッチを終えてみると、サスペンドを忘れていたため驚くようなストローク速度だった。今は仕事に集中しなければ。山口さんの「仕事が出来ない」という声が思い出されて手が震えた。
 一人になりたいと思って休憩時間に入力室を出た。開発部のロッカー越しに古田さんが「泉ちゃん」と声をかけてきた。私は「トイレ」と答えて通路をポトポトと歩いてそのまま通り過ぎた。三つ並んだ個室のいちばん奥。すっかり馴染みの場所で、私は戸を閉めて鍵を掛けるとトイレットペーパーをくるくると引っ張った。
 入力室に戻る時には開発の奥の席の澤田さんに「由加」と呼ばれた。私は足も止めずに「時間」とだけ答えた。目の端に、彼が腕組みをするのがちらりと見えた。
 昼休みには外に出た。朝、コンビニで買ったおにぎりがあったが食欲がなかったのだ。食べずにいると皆が心配すると思って「澤田さんと食べに行く」と嘘をついた。
 いい天気、散歩日和だ。会社のビルから裏道を選んで歩く。諒介のビデオで見た古い家を見つけた。こっちかな、と路地に足を踏み入れた。細い道を抜けるといきなり背の高いビル。いつか佐々木さんに連れて行ってもらった店のようだ。澤田さんが「いろんな時間があちこちから集まっとるみたいやな」と言ったのを思い出す。それなら築地の街は、そこかしこにタイムカプセルを隠しているのだ。路地裏で、曲がり角で、思いがけず誰かの時間が優しく見える。
 晴海通りに出た。目の前に勝鬨橋があった。
 勝鬨橋を渡りながら、上向き加減の視線、ビデオの映像を思い出しながら顎を上げる角度を決めた。
 知らず知らず『上を向いて歩こう』を口ずさんでいた。なるほど、上を向いて歩くとつい歌ってしまうものなのだ。
 築地の駅前で、両手でメガホンを作った諒介を思い出した。
 春の夕暮れ。西日に全ての輪郭が霞んで見えた。
 諒介の声だけはっきり覚えている。

 『いつか、』

 『今度は一緒に橋渡るねん。橋の架かったもん同士、もっと大きい橋』

 どうしよう。
 静岡に帰ったら、三人、離ればなれになってしまう。
 目の中を、鳩の影が次々と横切っていった。

  な み だ が、

 こぼれるなよ、と私は両手を横に伸ばしてバランスを取って歩いた。目の中に溜まった水で視界は白く滲んでいた。

  こ ぼ れ な い よ う に。



 噴水を囲む花壇に白や紫の花が揺れている。それらをぐるりと円形に囲むタイルの歩道。ベンチに影を落とす棚のアイビーの緑。日差しが白くまぶしい。何もかも色鮮やかだ。噴水を目の前にして、花壇の柵に諒介が腰掛けていたので、私は驚いて駆け寄った。
「諒介」
 彼は吸った煙草の火を消して、携帯灰皿に吸殻を落とした。
「どうしてここに居るの?いつこっちに来たの?」
「うーん。難しい質問だ」
 そう言って諒介は頼りなく笑った。休みを取ったのだろう、白いTシャツの上に青系のチェックのシャツを羽織った普段着姿だ。
「難しいって、何で」
「まいったな。判らないのは仕方ないけれど」
「そんな言い方で判るわけないでしょ?」
「そうだった。さて、ここはどこでしょう」
「どこって、うちの前の公園…」
 噴水がサーッと大きな音を立てて噴き出した。水飛沫が額にかかった。私は目を細めて見回し、驚いた。諒介の後ろに見える筈の、私の住むマンションがない。
 見たことのない景色だった。私の部屋の前の公園によく似ているが、少しずつ違う。まず、坂道の脇ではない。よって二階建て公園でもない。こちらの方が少し広いようだ。木々の緑に遮られてその向こうは見えなかった。
「…ここ、どこ」
「夢」
「え?」
「由加の夢にお邪魔してます」
 どうも、と二人で頭を下げて、諒介の足元を見た。いつものコンバースだ。
「今日はお便所サンダルじゃないんだね」
「うん。気を遣ってみました」
 この前、僕のイメージは所帯臭い、と言っていたけど、気にしていたんだろうか。
「…夢?」
「そう」と諒介は首を傾けつつ何度も頷いた。「…夢、だ」
「妙にディテールの細かい夢だなあ」
 私は彼の隣に腰掛けた。彼は「そんなもんだ」と言った。
「そう、お邪魔って、どうやって」
「企業秘密だ。そう秘密だが、僕は、大阪で人の夢にお邪魔する研究をしている」
「えっ、そうだったの?」
「嘘」
「バカ野郎」
 あんまり驚いたので、つい右手で殴ってしまった。諒介の頬で、拳がへちゃ、と潰れた。
「本気にするか、普通」
 彼はクククと笑った。諒介が言うと、何でも本当に聞こえるから怖い。
「まいったな。いや、本当に…夢か、これは」
「え?」私は身体ごと横を向いて諒介を見た。彼は口をへの字にした。
「夢は往々にして自分でそれと判らないものだ」
「うん」
「正直言って、これが夢であると言い切る自信が僕にはない」
「何それ」
 彼は頼りなく眉の下がった笑みで私を見た。「うん。その、」と眼鏡を外して目をこする。
「夢の中でまで、こうして言うべき事を考えているのはなさけない」
 諒介は夢の中でまで相変わらずなのだった。私は、変なの、と答えながら笑った。
 その後、手はどうだと訊ねられて、兄の事を話した。諒介は黙って頷きながら聞いていたが、「由加は」と眼鏡を外して目を伏せた。
「何を、どうやって決める?」
「え…」
「それは自分で考えなさい。でも、その前に市川さんに相談するといい」
 そう言って彼は眉間を指先で軽くこすると眼鏡をかけ、微笑んだ。
「僕が一度大阪に戻って決めたように」
「…うん」
 私は頷きながら、一年前をどんどん思い出していた。忘れてしまいそうで思い出すようにしていた時より、ずっと鮮明に時間が戻ってくるのが不思議だった。
「また落ちそうになってない?」とも訊かれ、「うん」と答えた時、ピリリリリリ、と着信音が鳴った。諒介はジーンズのヒップポケットからスマホを取り出して「はい」と言い、それからしばらく黙っていた。
「…そうか。…いや、うん。…そう。よろしく」
 トン、と電話を切る。「さて」と諒介はスマホをポケットに戻して、フッと笑った。
「寝ている場合じゃなさそうだ。せーので目を覚まそう」
「え?」
「澤田の所に帰りなさい」
 すっと諒介の大きな掌で目隠しされた。
 耳元で声がした。
「またね」



 ゆっくりと目を開けると川面がきらきらと光っていた。すぐ側に勝鬨橋が架かっている。隅田川テラスだ。木のベンチに腰掛けたまま、ぼんやりと隣を見た。誰も居ない。
「由加!」
 澤田さんだ、と顔を上げると、彼は橋の上から私を見下ろしていた。こちらに向かって来る。土手の階段をぴょんぴょんと駆け降りて来た彼は、息を切らして「やっぱりここやったかァ」と言うと膝に手を突いて呼吸を整えた。
「さっき見た時はおらんかったな、どこ行ってた」
「……」
「…覚えとらんか?」
 覚えているけど、それは夢だ。だから、やっぱり覚えていない。少なくとも、勝どきに向かって橋を渡ったのは覚えているが、どうやってこの築地側のテラスに戻ったのかは覚えていない。頷くしかなかった。
 澤田さんはふうと大きな溜息を吐いて困ったような笑みを見せ、私の隣に腰掛けた。私はごめんと謝った。
「今日は一際おかしかったで、由加」
「ひときわ、って…」いつもおかしいって事か。
「俺と飯食う、て?知らんちゅうたら杉田さん、一言『出動』」
「出動?」
「俺は『泉レスキュー隊』とか『爆弾処理班』とか言われてんねん。何で『隊』とか『班』とかを一人でやらなアカンねん」
「だからごめん」
「仕事にならへんわ」
 仕事、と聞いて私は「…もし…」と俯いた。「私が辞めたら…澤田さんの仕事の邪魔にもならないよね…。私…も、ちゃんと仕事が出来てる訳じゃないし…帰って来いってお兄ちゃんも言いに来て…」
 澤田さんがゆっくりとこちらを向いた。真顔になっていた。
「それでか」
「やっぱり…辞めた方がいいの、かな…」
「由加はほんまにそれでええんか。今まで頑張って来たやんか」
「…仕事…したか、った、から」
 仕事が出来なくなったら、私には何もなくなってしまう。それだけで、ずっと続けていた。私には他に力を蓄える術がないのだ。私は弱い。だからすぐ泣くんだ。涙がぽとぽとと落ちた。
「仕事が出来なきゃだめなの」
 私が叫ぶと、澤田さんはいきなり私の頭を手でぐいと引き寄せた。一瞬、なぜ私の目の前にネクタイの結び目があるのか判らなかった。状況を理解したその時、いつか彼の言った縺れた思考回路の軋む音がしたみたいだった。
「放して」
 動くと押さえつけられ、私の額が澤田さんの肩にごちごちとぶつかる。
「放したらまた居なくなるやろ」
 『居なくなる』と言われて動けなくなった。
「仕事が出来んくらい何や。おまえはおるだけでええ」
  カチッ
 何?
「煎餅や肉まんにリボンかけたり、必死で箸握ったり、新人に本選んだり、そういうおまえがええねん。ここにおれや。…俺のとこ」
  カチッ

「…放して」

  カチッ

「由加」
「居なくならないから、放して」
  カチッ
 すっ、と澤田さんが離れた。頭がぐらぐらする…、動けないまま目だけで周囲を掴もうとする。何が何だかよく判らない。ひどく疲れているのだけ理解できた。
 澤田さんの後ろを歩いてゆっくりと会社まで戻る間、いろんな言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
 『おまえはおるだけでええ』
 『由加はそれで充分』

 『俺はそれが時々……』

 『由加はそういう人』

 …何?


 『通り過ぎてから、時々振り返ってしまうような…』


 何も考えられない。
 気持ち悪い。

  カチッ
 澤田さんがエレベーターの『5』のボタンを押す。上へと運ばれる時の、足元の不安が不意に突き上げた。

 ───まるで予感だ───

 エレベーターを降りた私は、そこに呆然と立ち尽くした。目の前に伸びる廊下、右手の衝立の向こう、休憩所に自販機の明かりと背の高い観葉植物の緑、左手の給湯室の入口は暗い。そこまで歩く事ができない。
「由加」
  カチッ
 歩き出す。入力室に戻ってチーフに謝った。チーフは怒っているようでも戸惑っているようでもあり、「あとで…」と言うと、その後をどう続けようか考えるように薄く開いていた唇をきゅっと結んで、ただ頷いた。



 その夜、皆が退社して、休憩室に市川チーフと二人きりになった。実家に戻るよう言われているが私は仕事を続けたい、と言うと、チーフは「休職っていうのは?」と背中を丸めて膝に頬杖を突いた。
「休職…?」
「続けるか辞めるかの二者択一しかない訳じゃないのよ?」
「…あ、」と思わず言うとチーフは「やはり考えてなかったか」と笑った。
「それでしばらく実家に帰ればいいじゃん。それから…復帰後も入力じゃなきゃだめなの?休職中にパソコンの勉強をしておくとか。そしたら事務の方で復帰できる。そっちならスピード命の仕事じゃないしさ」
「…そうですね…思いつかなかった」
 フフ、と彼女は笑って「本当は、人事に森ちゃんじゃなくて泉ちゃんを行かせようと思ったんだよ、私は」と言ったので、私は驚いた。
「だけど古田君と話し合って、怪我の原因が故意の可能性もある以上、犯人さんが居るかもしれない所に送る訳にはいかないでしょ、と言われたんで、入力に残したんだけどね。泉ちゃんにはかえってプレッシャーになっちゃってるところもあって、だから休職はいいと思うよ。それで手の回復次第でここか、森ちゃんの居る人事に行けばいい。もちろん、それは泉ちゃんに復帰の意志があるならね」
「あります、あります」
「アハハ。そんなリキ入れなくてもいいよ」
 諒介の言った通りだ。チーフに相談して良かった。ぱーっと道が開けたみたいだった。
「ありがとうございます。頑張ってみます…」
「そうしてください」
 それから話し合って、五月の連休を境に休職する事に決めた。今月いっぱいは新人さん達をちゃんと見て欲しい、とチーフは言った。古田さんから先週の休憩所での事は聞いているのだろうが、何も言われなかった。