ドリーム・プレイヤー-3

 時間もあるから大きな書店へ行こうという事になって、澤田さんと一緒に有楽町線で池袋まで出た。朝、休憩室で話した時に「タイプの練習になって、しかも面白い本はないか」と訊ねると、「良さそやなと思うのはあるけど、実家に置いて来てん」と答えたので、その本を探しに来たのだ。
「何で本なんや」
「私がうちのパソコンで雑誌の記事を見ながらタイプの練習を…」
 デパートの地下連絡通路を歩きながら言うと、澤田さんはゆっくりと振り向いた。
「そーか…」
「…うん」
 右手を思うと辛い。
 けれど澤田さんまで辛そうな顔をするから困ってしまった。
 どこへ行くのだろう、と思ったら児童書のコーナーだった。色とりどりの絵本の棚の間で大柄な澤田さんが浮いて見える。背を丸めて本のタイトルを横に見てゆく。「これ」と一冊を抜き取ってページをぱらぱらとめくった。
「ほら、全部ひらがなや。文も短いし、タイプの練習にちょうどええわ」
「絵もきれいだね」
「由加はこういうの好きやろ」
「うん」
 横から覗き込んで中を読み、それを受け取りながら首を傾げて表紙を見た。谷川俊太郎。
「…澤田さんて」
 彼はぱっと両手で耳を塞いだ。
「何やってるの?」
「秘技、由加封じ」
「聞こえてんじゃん。澤田さんて」
「やめえ、て」
「こういうのも読むんだ」
「……」
 はあ、と息を吐いて彼は耳から手を離した。私は開いたページの文字を目で辿った。『どんなよろこびのふかいうみにも───』
「澤田さんて、優しいんだね」
 見ると秘技を出すのが遅れたのか、澤田さんは棚に寄り掛かってぐったりしていた。さすが読書家、と言うと「疲れるわ」と答えが返ってきた。澤田さんは自分で言うよりずっとシャイなのだ。



 私の故郷は坂の街だ。街全体が富士の裾野の斜面にあるから、なだらかな坂がどこまでも続く。私は坂を下って行った。遠く、坂の下に小学校が見えた。校庭の桜の色は遠くからでもはっきりと判り、そこだけ空気に赤味が差したようだった。
 私が通った頃と変わらない校舎は夜の静けさの中で眠っている。
 見上げると黄色い月が私の頭上にあった。
 そのまま後ろを振り返る。夜の富士。変わらない確かさ。強さ。
 私は引き返して坂を上り始めた。富士は遠い。掴めそうに見えるのに。
 私は歩調を速めてゆき、気が付くと走っていた。時折右手を前に伸ばす。
 右手で富士を掴もうとした。
 明かりの消えた民家の間の道を抜け、もう一度富士を掴もうとして足を止めた。
 息が切れる。富士は大きすぎて、遠いけれど近くに見えるのだ。ここからではとてもつかまえる事はできない。もう帰ろう、と思った。目を伏せると涙がこぼれた。
 頬を拭って目を開けると、私はベッドの中に居て、涙が横に流れて耳を濡らしていた。頭を動かして壁のコルクボードを見上げる。ポストカードの富士山が私を見下ろしていた。
 帰りたい。
 富士の夢ばかり見る。
 私は布団を頭まで被った。知らず、「お母さん」と呟いていた。
 いつも炒め物が少し焦げている母。洗濯が一番好きな母。
 お風呂で歌を歌うのが好きで、だけど音痴の父。
 私が帰るといつも憎まれ口を叩いて、だけど私に構わずにいられない兄。
 帰りたい。
 新人さん達の研修指導が始まってから二週目に入っていた。山口さんは先週末で研修を既に終えて、簡単な仕事を始めていた。浜崎さんはデモを聞きながらのタイプ練習を経て、今は文章の練習に入っている。来週には仕事に入れるだろう。そこで私もようやく元の仕事に戻れる。
 夜毎、富士の夢を見ては帰りたいと思う私がどうにかインストラクターを続けていたのは、新人二人が日に日に上達してゆくのが張り合いになったのと、諒介との約束があったからだった。
 『今、僕は力を蓄えているところなんだ。由加もそうしてくれないか』
 私はベッドから起き出して、キッチンのテーブルに向かうとパソコンのキーを叩いた。



 休憩時間にトイレから出てハンカチで手を拭き拭き廊下を歩いていると、休憩所から古田さんが「泉ちゃーん、ヘルプミー」と手招きした。何だろう、と近寄って向かいの椅子に腰掛けた。古田さんの隣で煙草を吸っていた澤田さんが、まだ残りも長いのに火を消した吸殻を灰皿に落とした。古田さんの前には雑誌が広げられていた。地域情報誌の行楽ガイドのページだ。
「どこか出かけるの?もうすぐ連休だものね」
「うん。連休明けにね、大阪に出張で家を空けるからねえ。家庭サービスしとかないとね」
「お父さんも大変だ」
「勇クンも出張連れてっちゃおうかしら」
「無理やろ」
 勇君は古田さんの二人目の子供で、まだ一歳にもなっていないと聞いている。
「それで?どこ行こうか迷ってるんでしょ」
「僕はそういうの、さっぱり判らないの。家に居るのが一番好きだから。澤田の意見は参考にならないし」
「温泉がええって。露天で、家族水いらず」
「水のない温泉は空しいねえフフフ」
「アホ」
 ふうん、と私は雑誌を覗き込んだ。緑の多い、広い公園なら勇君も芝生の上でハイハイができるよ、などと話していると、二人の向こうに誰かやって来た。「いずみさんって」と聞こえたので、私は背を丸めたまま顔だけ上げた。がっしりした澤田さんと、ふっくらした古田さんにブロックされて、ちりめんじゃこの私からは自販機のコーヒーの写真の上半分と観葉植物の葉が見えるばかりだった。
「何であの人がインストラクターなの?」
と聞こえて私は動けなくなった。どこかから、それを言っちゃあおしまいよ、と寅さんの声がした。私は寅さんのシリーズも好きで殆ど観ている。
 それは私も自覚しているのよ、山口さん、と心の中で返事をした。古田さんの頭の向こうに煙草の煙が上るのが見えた。
「びっくりしちゃった。最初はさ、教えるんでゆっくり打ってるのかと思ったんだけど、本当に遅いんだよね。何でこんな人が入力の仕事やってるのかと思った」
「…手が不自由みたいだよ?」と浜崎さんの声。「ペンも使いやすいようにテープ巻いて…」
「そう、すごい字」
 私は肩を竦めて身を小さくした。顔が熱い。隠れてしまいたい、と思った。向かいの二人がそれを察したのか妙に肩をくっつけている。上目遣いに二人を見ると、古田さんはいつものニコニコ顔に困惑を混ぜた表情だった。澤田さんは眉間に皺を寄せて唇を尖らせている。頬杖を突き、空いた手で雑誌のページの端を弄んでいた。
「だから不思議なんじゃない。なんで手の動かない人が入力やってる訳?はっきり言って浜崎の方が、もう打つの速いよ。訊いたらさ、怪我したって?前は出来たかもしんないけどさ、今はもう出来ないんだから辞めた方がいいんじゃないの?利き手使えないんじゃ他の仕事もできないだろうけどさ」
 突然、澤田さんが雑誌をいじっていた左手を私の右手の上に置いてぎゅっと握った。ゴツゴツした手に驚いた。古田さんは細い目で私を見ると、傍らの新聞を手に取ってバサバサと大きく広げた。二人の姿が見えなくなった。
「仕事が好きなんじゃないかな」
「出来なきゃ話になんないじゃん」
 テーブルの下からガタンと椅子の脚が鳴る音がして、古田さんが小声で「澤田」と言った。澤田さんの小さい溜息。目の前の新聞がぼやけた。俯くと、涙が澤田さんの手の甲に落ちてしまった。あとはもう、二人の声もよく聞こえなかった。仕事が出来ない、その言葉が頭をぐるぐると回った。
「今夜のレッズの試合の録画を頼まないと。前半を見逃してしまうね」
と古田さんは新聞をバサバサと言わせた。新聞が目の前にぐーっと近づいて、澤田さんが「…今日はどことや」と訊き、古田さんが「セレッソ」と答えた。もう何も見たくない。私はテーブルに突っ伏して目をぎゅっとつぶった。
 バサバサ、と頭の上で音がして、新聞を片づけたのが判った。
「ちょっと待っててね」
 古田さんが立ち上がって休憩所を出て行く音。しばらくして戻って来て、テーブルの上に何かを置いた。傍らの自販機の方からドン、と音がした。
「俺は想像力に欠けたアホはよう好かん」
「僕は物に八つ当たりをする奴は愚かだと思うよ」
「へえ、愚かモンです」
「それじゃあね」
「すまんな」
 澤田さんが謝っているので、私は顔を上げた。テーブルの上にあったのは私のジャケットとバッグ、澤田さんの鞄だった。
「アホらし、今日はもう帰ろう」
 そう言って澤田さんはやっと手を放した。
「市川さんには古田の方から話したやろ、心配要らんから」
 私は呆然としたまま立ち上がり、ジャケットを着た。澤田さんは鞄とバッグの二つを持って、私が歩き出すのを待った。一階まで降りて、並んで歩いて外に出る。澤田さんは「どこ行こか、時間はたっぷりあんな」と言った。
 時間はたっぷり。
 『時間がない』
「どっちなの?」
 『どっちだ?』
「何が」
 『今、探しているところだ』
 『私も』
「判らない」
 『まだ、判らない』

 『いつか、』

「…諒介が呼んでる…」
「…そーか。ほな、奴のとこ行こう」
 澤田さんは頷いて、私の右手を握ると引っ張って歩き出した。駅とは逆の方向だ。晴海通りの角を曲がった。
 勝鬨橋だ。
 ゆっくり渡り始めた。
「和泉が待ってる」
「うん」
「和泉も渡ってくる」
「うん」
「俺らと約束したからな」
「…うん」
 私は涙をぼたぼたとこぼしながら正面を見た。私の手を引く澤田さんの背中がぼやけて見える。橋の中程で彼は立ち止まった。
「言うたれ、いつもの」
「…何」
「バカ野郎ての」
 橋の欄干に凭れて隅田川に向かった。
「…バカ野郎…」
「…由加も和泉も、何か焦っとるみたいやけど…時間は作れるんやで?こやってズルして早退けしたりな?」
 澤田さんはフッと笑って言った。
「由加、これもメモしとけ。こう、」と左の掌に右手の指で書く。
「そんで、今度奴に教えたれ」
「…今度会うのは澤田さんでしょ」
「うん。古田と一緒に大阪行く。…もう、戻ったな」
 そう言って、澤田さんは頷いて川を見た。
「この前の橋の行ったり来たりな、最初、何やと思ったけど、思い出してな。そーか、東京と大阪に橋架かっとんねん、俺が言ったんや。橋架けて待ってるてな。せやから由加は橋にこだわっとんのやな、て判って。和泉もそれ判ってて言うたんやな。そしたらなあ」
 彼は笑い顔をこちらに向けた。
「渡って行ったり来たりだけやないな、て思うてな。一緒に渡んねん。和泉は一人で渡ろうとしとるみたいやけどな。渡った先を見とるからやろな。…うん、俺も見とるけどな。でもまだその先があんねん。東京と一緒に、てそら二十三区担いで渡れへんけどな」
 私達の周りに鳩が集まってきた。澤田さんは鳩を見遣って、またこちらを向いた。
「東京と一緒に、て由加の言うんはそーゆーこっちゃないんか?渡った先の誰かと、今度は一緒に橋渡るねん。橋の架かったもん同士、もっと大きい橋」
 私は涙を拭うのも忘れて聞いていた。拭っても次々に涙は出ていたけれど。
「…澤田さんて」
 澤田さんは、ぱっ、と耳を塞いだ。