テンダースポット-4

 隣の部屋がざわざわと賑やかになり、足音やドアを開け閉てする音で目を開けた。うつらうつらとしながらそれを聞く。カチャ、とドアが開いて「由加?」と澤田さんの声がした。私は膝掛けから目だけ出してドアの方を見た。澤田さんと古田さんが入って来てドアを閉めた。ぱっぱっ、と天井の明かりが端から点っていく。
「また貧血?」と古田さんが傍らの椅子を引いて座った。頷くと、二人はふうと溜息を吐いた。体調を整えるのも仕事のうちだ、それは判っている。私は居心地が悪く、膝掛けから顔を出す事もできなかった。
「また何かあったんか」
「…ううん、ただの寝不足…」
「ほんならええけど」
 澤田さんも古田さんの隣の椅子を私の前まで引いて座る。「し、」と言いかけると古田さんと二人で、ぶっと吹き出した。
「失礼すますた、はないやろ」
「それは」と慌てて起き上がる。くらり、と揺れた。後ろ手に体を支える。
「びっくりして緊張しちゃったんだもの」
「こっちもびっくりしたねえフフフ」
「あの後、笑ってもうて会議が中断したわ」
「知ってる。聞こえてた」
 恥ずかしい。俯いてしまう。
「何や気に入られてたで?向こうさんに。『泉さんて言うんですかー、可愛いなー』」
「そうしたら和泉が『いや、そんな、まいったな』って」
「『あんたやない』って」
 二人はその時の様子を再現して見せた。会議を中断して漫才をやっていたらしい。本当にこの会社はと言うか、系列に至るまでこんな社風なのか。
「もう良うなったか」
「うん」
 それじゃ、と立ち上がって椅子を戻す二人に、もしかしたら私を元気づけに来たのかな、と思って訊いてみた。澤田さんは「別に。おもろかっただけや」と向こうを向き、古田さんはフフフと笑って澤田さんを後ろから指さして頷いた。
 二人が会議室を出て行った後、膝掛けを畳んで抱え、暖房を切った。もうすぐ昼休みだ。エレベーターの前で矢島部長と出会った。部長は私を見るなり下を向いた。
「部長、別に笑ってもいいです」
「そうか、すまないな」
 そう言うと彼は壁に手を突いてクククと笑った。エレベーターの扉が開いて一緒に乗り込む。部長は『5』のボタンを押して扉を閉めた。
「面白かったよ?和泉君が『まいったな』って」
「私をネタにボケかましたそうで」
「いいや?君を誉められて彼は照れたんだと私は思ったけど?」
「はあ?」
 扉が開く。部長の後に続いてエレベーターを降りた。
「いえ、諒…和泉さんは、笑いを自分に向けたんだと思います。私が恥ずかしがるから」
「ふうん。そうだったのか」
「そういうの、何となく判ります」
 以前にも私が諒介を殴って合わせる顔がなかった時に似たような事があった。皆は天然ボケだと言うが、私は彼が計算してやっているのではないかと思う。
「そうか」と部長は私を振り向いて微笑んだ。ハンサムな人に笑い掛けられると赤面してしまう。「君が顔を出した後、会議の雰囲気が変わってね。後はもう人選だけだったんだが、若い連中で組む事に決まったんだ。まあ、あちらさんの意向もあったけど、いい雰囲気で決まったのは泉さんのおかげかな」
「そんな」
「本当に、あの」
 そこまで言って部長はまたクククと壁と仲良しになった。もういい。どうせ私は笑い者なのだ。彼は「いや、こちらこそ失礼」とまた笑う。
「はあ、もう『失礼』と言うだけで笑ってしまうね」
「存分に笑ってください。慣れてます」
「いやいや、君はなかなかチャーミングですよ。もっと自然にしてもいいんじゃないかな」
「え?」
 廊下の角を曲がって、開発部の前で立ち止まった。
「結構、引っ込み思案でしょう」
「そうですか?…割とそういう所もありますけど、ここでは地でいってますね…。うん、そういう雰囲気があって、自分らしく居られるというか」
「自分らしく居られるから内気な所も晒しちゃってる訳でしょう」
「あ」
「大丈夫だよ、思った事をもっと口にしても」
「…はい」と私は頷いた。「それじゃ失礼」します、と言いかけると部長はぷっと笑った。見ると今の会話を聞いていたらしい澤田さんがデスクに突っ伏して、また肩を震わせていた。迂闊な事は言えない、と思いつつ入力室へ行こうとする私を澤田さんが呼び止めた。
「昼飯、一緒に食わへんか」
「食欲ない」
「そーか」と言いながら歩み寄って声を落とす。「ほんまにただの寝不足なんか」
 本当に、澤田さんにはかなわないと思う。彼は部と通路を隔てる低いロッカーの上に腕を組んで寄り掛かった。
「うん。寝不足…」
「お、来たかな」
 角の向こうに人の話し声がして、こちらに諒介ともう一人、知らない人が一緒に現れた。その人は私を見て口をぎゅっと結んだ。笑いそうになったんだろう。私は俯き加減に見上げた。澤田さんといい勝負の身長、諒介といい勝負の痩せ具合。じっと見下ろされて早く逃げた方が良さそうだと思った時、「どーも」と彼はにこやかに話しかけてきた。
「今度こちらの古田さんらと一緒に企画組む高橋です。よろしく」
「…泉です」
「えらいちっこいなあ」
「すみません」
「うんうん、可愛いわー。持って帰りたいわ、携帯便利な手のひらサイズ」
と高橋さんはいきなり私の頭に手を載せて撫でた。私は思わず「ひゃっ」と言って肩をすくめた。
「…これは失礼すますた」
 高橋さんが手を放し、澤田さんがロッカーに突っ伏した。壁に寄り掛かって見ていた諒介が「気安く触らない方がいい、殴られる」と笑った。
 三人は「行こう」とエレベーターの方へ去った。私はずり落ちそうな膝掛けを抱え直して入力室へ向かった。



 思いがけない失敗のおかげで手の事を気にせずに済んだのか、午後からの仕事は順調にこなしていった。部屋の隅のストローク表を見る。怪我をする前に比べたら格段に遅い。それでも杉田さんに「ミスが減ったね」と言われて嬉しかった。
 休憩時間を終えるブザーが鳴って席に着こうとすると「泉ちゃん」とチーフに手招きされた。「これお願い」と郵便物の束を渡される。チーフは時々こうして、私の手を休める時間を作ってくれている。二階の総務に持っていくだけだが、焦る私の気分転換にもなるからだろう。こんな時、不意に泣きたくなる。
「速達もあるから、全部郵便局で出しちゃって。総務の子に任せるより早いや」
 はい、と大小様々の封筒を抱えた。小さい封筒を落としてしまいそうだ、と左手の方に寄せて入力室を後にした。
 ビルの外に出てからも封筒が落ちないかとそればかりが気になる。手提げ袋にでも入れてくれば良かったと思いながらゆっくりと歩いた。「泉さーん」と呼ばれて何気なく振り返った時に封筒がばさばさと足元に落ちた。
「あらら、ほんまに粗忽やわ」
と駆け寄った高橋さんはしゃがみこんで封筒を拾った。追いついた諒介と、もう少し年上らしき人が私に笑い掛けた。
「ハイ」
 ありがとうございます、と受け取ろうとして右手を引っ込めた。見られたくなかったのだ。左手を出すと「片手で持てへんでしょ」と言われて戸惑った。
「彼女は怪我をしていると昨日聞いただろう」
「ああ、なら僕がそこまで持つわ。堪忍な、粗忽なんて」
「いえ、私が持ちます」
「どこへ行くの?」と諒介が訊ねた。
「京橋郵便局」
「それならあっちから晴海通りに出た方が近いのに」
「あ、」言われてみればその通りだった。つい習慣で通勤に使う道を歩いていた。
「…考え事してた。やっぱり粗忽かも」
 高橋さんはアハハと笑って「放っておけない感じやなー、可愛いわ」と言った。
「失礼だろう、高橋君より年上だ」
「嘘ッ」
 失敬な。
 話によれば高橋さんは私より三つ年下だそうで、その人にさんざん可愛いと子供扱いされるなんて、そんなに頼りなく見えるのかとなさけなくなった。新大橋通りの角で封筒を抱え込むように受け取った。
「もう帰るんですよ。残念ですわ、泉さんとゆっくりお話したかったです」
と言われて思わず二歩程後ずさった。
「そんな、嫌わんといてくださいよ」ずんずん、と近寄る高橋さん。
「いえ、そんな」じりじりと下がる私。
「何で逃げるんですか」ずんずん。
「何でと言われても」じりじり。
「こらおもろいわ」
 人をオモチャにするな、と殴る訳にもいかず後ろに逃げる。
「由加」
 諒介に大声で呼ばれた。
「郵便局はあっちだ」と彼は親指で向こうをさした。ほっとしたらまた封筒がばさばさと落ちた。高橋さんと二人でしゃがみ込み拾っていく。
「ユカさんですか、ふうん。覚えとこ」
「忘れていいです」
「冷たいとこもええなあ」
「勘弁してください」
「ハイ、失礼すますた」
と彼は封筒の束を差し出した。近づいた諒介がそれを聞いていたのか、私が「それは特に忘れて」と言うとクスッと笑った。
 諒介と並んで、高橋さんともう一人、河上さんの後に続いて築地駅の方へと歩く。もう大阪へ帰るらしいが諒介は週末までと言ったのに、と訊いてみたいが訊けない。本願寺前の駅の入口で「それじゃ」と軽く会釈した。失礼します、が言えない。二人が先に階段の方を向くと、諒介は声に出さず口だけ動かして、あとでね、と言って背を向けた。
 晴海通りの交差点を渡りながら、胸の底の方がちくちくして気持ち悪いと思った。



「恥の多い生涯を送ってきました、って太宰やったか」
「『人間失格』か」
「そんな」
「人生はワンツーパンチで恥かきベソかき歩くんやな」
「まさに由加のテーマだ」
「ひどい」
 新橋のガード下のおでん屋。新橋で諒介と待ち合わせているという澤田さんと一緒に退社して、早速の話題がこれだ。私はいつまでも笑う二人に挟まれて「むう」と冷や酒を飲んだ。
 諒介は昼間に会社を出た時点で休暇に入っていたのだそうで、宿泊先で着替えたのだろう、正月と同じ白いセーターにジーンズという出で立ちだ。紺のステンカラーコートを除くと周囲の客とはまるで異質で浮いて見えた。そう言うと、澤田さんが「由加がいちばん浮いとるわ」と笑った。言われてみれば女性客は私一人だ。二人に挟まれているから居られるものの、一人では絶対に来られない雰囲気。
「昼飯の時に高橋君が」と澤田さんは箸で玉子を割りながら、「何や、由加の事をさんざん訊くねん。気に入っとるみたいやったから」
「えっ」
 串の先からぽろっと昆布が落ちる。
「怒りっぽく暴力的な上に胸もない、と真実を伝えといた。イテッ」
 反射的な左ジャブ。
「和泉、席代われ」
「僕も命は惜しい」
 そうですか、と私は唇を尖らせた。箸の代わりに串を使って大根を切り、それを刺して食べる。おでん屋というのも二人の気配りなのかと思ったが、何となく訊けなかった。
「その点高橋君は命知らずやで?『泉さんはフリーなんですか』ときて、その場に居たうちの連中、テーブルに沈没したわ」
「沈没?」
 昼食を採りに入った店に偶然居合わせたらしい。少し離れたテーブルに古田さん、中嶋さんとその婚約者の飯塚さん、大河内さんが居て、高橋さんの大声に笑いを堪えたという事だった。
「…それで?」
「悪い事は言わんから由加はやめておけと」
「ええ、それは失礼すますたね」
 ぶっ、と諒介がまた吹き出した。いつまで笑うんだ、このネタで。
「私だって困るよ。今は…仕事の事で手一杯…」
 見ると串が小刻みに震えていた。そっと手を下げて隠す。食べかけの大根がもう冷たくなって、皿の上で半月の形になっている。
「そういうの全然考えられない…」
「去年の今頃だったか。由加が派遣で来たのは」
 ふいに諒介がコップをトンと置いて言った。
「僕が研修指導した。呑み込みが早くて、こっちは楽だった。それから二週間くらいしてからだっけ?説明会のオペレーターを頼みに入力室へ行って、ストローク表を見せてもらった。処理量とミス率で選んだら、ベテランの杉田さんとたった二週間の由加だ。驚いたよ」
「ほーお」
「それは、二週間って言ったってオペレーターのキャリア自体は長いから…」
「うん。そういう下地があるのはもちろんだけどね。やっぱり、その、」と煙草を手にした指で額をこする。「集中力とか意欲とか、そういうのをね、評価したい訳だ」
 うん、と諒介は自己完結した。私は膝に載せた串を持つ手を見た。
「それで澤田とここに来たんだったな」
「ああ、せやったな。あの頃は由加はまだ厚手の猫かぶっとって」
「厚手の猫…なんかラクダ色してそう」
と私が言うと二人は「ラクダ色」と肩を震わせた。
「今はほんまにええ味出しとるわ」
「あの会社の色に染まったかも」
「ああ、先月もおもろかったな」
「先月?」と諒介。
 バカ、と私は澤田さんに思いきり肘打ちを喰らわせた。