テンダースポット-2

 午後の休憩に異例の掃除。
 と言っても各自がデスク周辺を片づけるだけだ。
 原稿台にマグネットで無造作に留めていたメモなどをノートに挟んで抽斗に入れる。それからする事もなくて、何となくペン立ての底に溜まった埃を広げたティッシュの上にトントンと落とした。「泉ちゃん、誰もそんな所見ないよ」と佐々木さんが笑う。向かいの松岡さんが「原稿台の後ろ」と指さした。覗き込むとファイルがぐちゃぐちゃに置いてあった。赤面しつつそれも抽斗に入れた。今日はこれから視察が入るのだ。
 いつも通りにタタタタタというキーの音の他には何も聞こえない。
 右手の怪我からひと月、包帯が取れて二週間。右手が使えない間、食事はスプーンか手掴みの物、仕事は校正だった。
 久しぶりにキーボードに触った時は指が動かず焦った。今もゆっくりとしか叩けない。手を開いたり丸めたりは軽い力でできる程度だ。病院では「神経も切れていたから、つないだけどリハビリは必要ですよ」と言われ、毎晩自分の部屋でパソコンを使って雑誌の記事を見ながら手を動かしているが、思うようにいかない。もう二週間にもなるのに、と思うと手が震え出す。
 静かにドアが開いて人が入ってきた。
 他社のお客様かどこかの偉い人か。緊張する。チーフが立ち上がり、お辞儀して何事か話す。皆、手を止めずにいる。目は原稿から離さない。そういう作業を見に来ている人達なのだ。私は顔を上げられなかった、手が震えてきたのだ。こんな時に、とそっと手を止めて右手をさすり、またキーを叩き始める。私の正面の壁際からゆっくりとまわって窓の前を通り、私の後ろの壁に沿って近づいて来る。嫌だな、と思った。松岡さんの方をまわってくれれば、手元を見られずに済んだのに。
 タタタタタタタタタタタタタタタ
 パシャ パシャ パシャ パシャ
 視察の人達は私の後ろで足を止めた。
 視線を感じると、また手が震えてきた。指がつりそうだ。タッチをミスする。カーソルを戻してやり直した。小声で誰かが訊ねた。
「新人?」
 思わず手が止まった。
「いえ、彼女は手を怪我して」とチーフの声。
「そうですか」
 パシャ パシャ  パシャ  パシャ
 視察の人達は歩き出した。
 ショックだった。新人だなんて、ずっとこの仕事をしてきたのに。派遣でここに来てまもなく、チーフが「泉さんの仕事は速くて正確」と言ったのを思い出した。だが今の私は新人並み、いやそれ以下の量しか仕事をこなせない。
 パシャ パシャ  パシャ パシャ
 私の後ろを通り過ぎる。私を見ていくのかと思うと恥ずかしさで耳がかーっと熱くなった。
 最後の一人が通り過ぎざま、私のデスクの上を指先でトンと叩いた。
 かすかな音だった。
 キーボードの横、視界の隅に入った長い指の大きな手。
 私は横を向いてその人を見た。ひょろりと痩せた後ろ姿だった。彼は他の人達がドアから出る後に続く。皆はとっくに気付いていたらしく彼に注目しており、部屋を出ようとして不意に振り向き黒縁眼鏡の奥の目を細めてニコッと笑う彼に笑い出して一斉に拍手した。どうしたんだろう、と佐々木さんを振り向くと彼女は丸い目を私に向けて、人差し指でデスクをトンと叩いた。
 彼は沸き起こった拍手に戸惑ってふにゃっと笑い、口を「まいったな」の形に動かし右手で鼻の頭をこすった。何事かと彼の連れの人達が入力室を覗き込む。こちらの拍手が聞こえたのだろう、今度は開発部の方から拍手と笑い声が聞こえた。私と目が合った彼は照れ笑いして入力室を出て行った。
 どうして諒介は、いつも突然帰ってくるのだろう。



「どうして諒介は、いつも突然なのよ」
「うん、まだ正式に決まってなくて、今回も来れるか判らなかったんだ」
 有楽町駅から人がどっと乗ってきた。私はバッグを両手で抱え込む。車両のドアの手摺の横に立っていた私は、押されて右肩を手摺にぶつけてしまった。手摺を挟んで、諒介はドアの前に立つ。首を傾けて頭をこつんと車窓のガラスにくっつけて私を見下ろした。
「チビ」
「うるさい」
 有楽町線が走り出し、車窓に諒介がうっすらと映った。
 今回、東京に来たのは諒介の会社が中心の企画───説明されても私にはさっぱり判らない───を共同で進める開発グループを作ろうという事で、大阪の本社と、東京の我が社とを訪れたという訳らしい。「要するに人を掻き集めている訳ね」と私が言うと彼は「そんなところだ」と苦笑した。会議の後に視察を終えて、もう帰ったのかと思っていたら、新富町の駅のホームで声を掛けられたのにはびっくりした。
「何やってるの」
「その、…何となく」
 相変わらずだった。私は先日のアンケートを思い出し、待っていたのだろうと思い、彼と一緒に電車に乗った。正月にも会っているのに、一年ぶりのような気がしてくる。
「手、怪我したんだって?」
「…うん」
「どのくらい」
「何が」
「怪我の程度」
 澤田さんや古田さんから聞いていないのか。怪我の原因を考えると言えないと思った。
「もう大丈夫、さっきはちょっと緊張しちゃったの」
「ちょっと?ずいぶん緊張しているように見えた」
「うん、ずいぶん緊張して」
 諒介はクッと笑った。
「相変わらずだな」
「そっちこそ」
 何となく黙り込んだ。沈黙のまま池袋に着き、電車を降りる。ホームからエスカレーターに乗った時、どうするんだろうと思った。
「どこへ行くの?」
「どこへ行こうか。どこへでも」
「話があるんでしょう?」
「あるよ、ほら」
 コートの下のジャケットの胸ポケットに指を入れて、ちらりと白い紙を見せて戻した。この前のアンケート用紙だろう。
「それ、意味不明」
「うん。これはとっかかりに過ぎないよ。全部が判る訳じゃない」
「そうだけど」
「だから話があるんでしょう」
「なるほど」
 改札を抜けて地下道を歩く。帰宅途中の人々や買い物客で賑わうショッピング街のウインドウはもう春らしくピンクの彩りだ。有名菓子店のチョコレートのワゴンを見て諒介は「人が一度に食えるチョコレートの量の限界ってどのくらいだろう」と言った。本当に相変わらずだ。
「試した事ある?鼻血出るまで食べるの」
「いや、ない。僕にもそこまでのチャレンジ精神はなかった」
「セロハンテープは口に入れたくせに」
「うん。そんな事もありました」
 デパートの入口の手前で突然ぴたりと立ち止まる。
「由加、じゃんけんしよう」
「え?」
「じゃん、けん、」
 ぽん、で諒介はグーを出した。私もグー。
「あいこで、」
 しょ、と二人ともグーを出す。
「何?いきなり」
「僕が勝ったら晩飯は和食で由加が勝ったら由加が決める。あいこで、」
 しょ。二人ともグー。またあいこになってしまった。延々とグーのあいこが続く。こんな人通りの多い所で私達は振り返られながらじゃんけんをしている。おかしくなってきた。
「意地を張るな」
「そっちこそ」
 手はじゃんけんを続けながら話す。二人ともグーしか出さない。
「頑固者」
「偏屈」
「チビ」
「のび太のくせに」
「手をひろげられないのか?」
 思わずグーを出そうとした手が止まった。最初にうっかり右手を出してしまい、途中で左手に変えるのは不自然だと思ってグーを出し続けていたのだ。諒介は真顔で私を見た。
「そんな事ないよ」
「じゃあ、次で決めよう。僕も今度は何を出すか判らないよ」
 じゃん、けん、ぽん。
 諒介はあの大きな掌を見せた。
 『吐きなさい』
 私のチョキは丸まっていた。二本の指は真っ直ぐに伸びない。中指の真ん中辺りから掌の中心に向かって走る傷跡が諒介に見えないよう、手をそっと傾けた。
「由加の勝ちだ。何が食べたい」
 泣いてしまいそうだ。
 私は静かに深く息を吸い込んで、「お寿司」と笑ってみせた。



 デパートの11階の寿司屋でテーブルを挟んで向かい合った。諒介が「カウンターで次々と出てくる寿司も魅力的だけど、出張先でそんな危険な真似をおかすわけにはいかない」と言ったので、私はテーブルに突っ伏してククク、としばらく笑いが止まらなかった。諒介なら限界まで食べるだろう。私がやっと笑いを止めると、彼は胸ポケットから先刻の紙を取り出した。
「何、このちりめんじゃこって」
「澤田さんが言ったの。私の事、ちりめんじゃこだって」
「上手い事を言う」
と言われても、じゃんけんの事もあっていつものように手を出せない。諒介は「血圧計…」と呟いて、ふにゃ、といつもの頼りない笑いを見せた。
「まいったな」
「古田さんが、それを見た時の和泉の顔が目に浮かぶって」
「ますますまいってしまう」
 諒介は紙を指さして「観た、観た、観た、観た、観てない、観た、観てない、」と数えるように言う。映画のタイトルだ。紙をテーブルに置いて「これが好きなら」と指さして私の観ていない映画を教えてくれた。それからまた紙を手にして頬杖を突き、「ふうん」と読む。
「貼り紙って何?」
 それを話したら怪我の話になってしまう。私は「それは、その、」と言って、これじゃ諒介みたいだと思った。口下手が伝染してしまった。彼は紙を持つ手を下ろして、私をじっと見て答えを待っている。どうしよう、と思った時、お寿司が運ばれてきた。茶碗蒸しとお吸物も付いている。私は割り箸を袋から抜いてぐぐっと引っ張り、ぱちんと割った。いつも最初に食べる玉子を取る。諒介は箸も割らずにそれを見ている。
 ぽろり、と玉子が箸ごと落ちた。
「諒介、あんまりじろじろ見られると、緊張しちゃうよ」
「恥ずかしがり屋さんですねえ」
「うん。恥ずかしがりなの」
 諒介はマグロを手で取って口に入れた。もぐもぐと噛みながら私を見た。口の端が笑っている。
「諒介は、食べている時、幸せそうだね」
「うん」
と答えて今度は穴子を食べる。ごくんと呑み込んで「食べないの?」と訊いた。「食べる」と答えて、私も左手で玉子を取った。
 私も幸せだと思う。『食べる』の言葉一つで笑えた時の事を思い出した。
 茶碗蒸しを熱いうちに食べる。私はスプーンを持った。
「会社の人達と一緒じゃなくていいの?」
「うん。飲みに行くって言うから抜けて来た。僕がこっちに居たのはみんな知ってるから、用事ありますって言って」
「…すまないねえ」
「うん、まいった」
「何が?」
「限りある時間をフル活用しないといけない」
 諒介は苦笑して腕時計を見た。のんびり食べている場合ではなさそうだ。私は茶碗蒸しを置いて紙を手に取った。
「これで何が判るの?」
「由加の事が判るよ。由加の基礎と、最近興味のある事と、最近の出来事が判る」
「それで?」
「それだけ」
「それだけ、って…」
 やっぱり諒介はよく判らない。ねぎトロ巻を口に入れて睨むと、彼は笑いを堪えて目をそらした。
「由加が居なくなった時、給湯室に行ってたんだってね。その辺りは澤田から聞いたんだけど、その後、給湯室で変わった事はあった?」
 あっという間に食べ終えた諒介はおしぼりで手を拭き、お茶を手にした。
「ううん、一人で行かないから…この前の当番も森さんといつも一緒に…」
 怖くて一人で行けないのだ、とは言わないでおこう。
「湯呑みが割れた時の事は覚えてる?いや、割れる直前だ。何だっけ、忘れ物を取りに行ったんでしょう?それで戻って来なかった。忘れ物は何」
「お茶筒」
「あった?」
「……」ぼんやりと思い出す。「うん、あった。取ろうとして取れなかったから、」
「ストップ。どうして取れなかった」
「…包帯してたから」
「…うん。次」
「左手で取ろうとして…」
 眩暈がして足元が真っ暗になって、どこかに掴まろうとするのだが、どこもぐにゃぐにゃと曲がってしまったのだった。けれどそれは私がそう感じているだけかもしれない。不確かな足元の恐怖。
「澤田から電話があった時」
 諒介は私の器が空になったのを見て、内ポケットから煙草を取り出した。「見事だったね、実に」と言ってフッと笑い、火を点ける。
「由加が居なくなった、多分、正月と同じ事が起きている。それだけ言った。なぜそう思う、と訊ねて、昨日給湯室で手を切った時もそうだったから、今日も給湯室の湯呑みが割れていた、昨日と同じだから。それで僕は澤田と古田だけで由加を探してくれと頼んだ。見事だ、と言うのは奴が『正月と同じ』の一言で状況の全てを伝えた事。まさに由加は『居なくなった』訳だ」
 横を向いてふーっとゆるく煙を吹き出し、こちらを見て微笑む。私は左手で大きな湯呑みを持って温くなったお茶を飲んだ。
「正月に澤田の部屋で由加が『居なくなった』時も、部屋にペンが転がっていたり電話の受話器が外れていた。湯呑みは割れなかったけどね。少なくとも、由加は『居なくなる』前に暴れている訳だ。暴れるような何があったの?」
 もう隠せない。もうだめだ。
 私は俯いた。
 泣くな泣くな泣くな。手を伸ばしたら触れる物、世界が溶けて流れ出す。
 諒介も溶けて消えてしまうと思った。