バンドエイド・ブリッジ-1

 不機嫌な声だった。
 頭が働かない。はい、はい、と答えながら、用件が何なのか聞き取れない。電話の向こうでも声はがさがさしているのか、「とにかく早く来てくれ」というのだけ判った。ベッドの中から腕を伸ばしてスマホを置いた。羽根布団を頭まで被って、相手の顔を思い出す。確かあれは、銀縁眼鏡が神経質そうな人で、名前なんていちいち覚えていられないが、派遣先の…そう、仕事だ。目が半分開いた。
 高価かったのに、役に立たない目覚ましめ。
 私はメタリックグリーンの目覚まし時計に一発喰らわしてからベッドを抜け出した。脱ぎ散らかしたままの赤いセーターを拾い上げて身に着ける。赤は目を開ける。最低限の礼を欠かない程度に身なりを整え、黒いジャケットをハンガーから剥がして部屋を出た。
 エレベーターは私と荷物と憂鬱の重みで降下する。
 狭い場所では感情は圧縮されるのだろう。締めつけられる不快感に襲われる。
 チン、と音がしてドアが開くと、足元からどろりとした空気が流れ出したようだった。いや、むしろ外の鮮やかさ、春の気配が流れ込んだようで、上から下へと回る空気に押し出されて私は歩き出した。



 私はいわゆる人材派遣会社に登録している。仕事は主に情報処理だ。私の『売り』は処理スピードと正確さだ。昨今、スマホの普及でパソコンが使える若手は減った。私には若手にはないキャリアがあると自負している。
 もっとも、ここで使っているのはパソコンではない。入力専用の自社製品だ。
「だからね」と銀縁眼鏡の女性は言った。この入力室のチーフだ。
「時間にルーズじゃ困るの。あなた一人来ないと、その分みんなの仕事が増えるのよ。もう4回目だよ」
「申し訳ありません」
 入力室はキーを叩く音がタタタタタと大合唱をしており、彼女のかすれた声は途切れがちに聞こえた。私はようやくがさがさした声から解放されて、部屋の中央のテーブルに並べられた箱から『エンター』、つまり初期入力の原稿の束を二つ掴んで席に戻った。ここでは派遣された余所者は私一人だ。ベテランも何人かおり、私に修正の分は回されない。速く大量にノーミスでこなす、それが私の仕事だ。
 マシンをサスペンドにして、画面に目を凝らす。いつもよりぼやけて見える。グリーンの文字表示が滲んできた。明るさを落とす。目頭を指で押さえつけて、瞼の裏に光の粒を見た。今朝から、気分が悪い。



 昼休みになっても胃のむかつきが治まらなかった。朝食を抜いたせいだろうかと思ったが食欲がなく、ランチの誘いも断った。誰もいない休憩所で紙コップの烏龍茶を買う。雑誌を眺めていると他の部署の人たちが食事を済ませて戻ってきた。休憩所は喫煙所を兼ねている。「一服してくから」と一人が通路で仲間と別れ、こちらへやってきた。軽い会釈で彼は少し離れた椅子に腰掛け、ジャケットの内ポケットから煙草とライターを取り出した。システムエンジニアだが、確か入力室のインストラクターも兼ねていて、私も初日に世話になった人だ。黒縁眼鏡の奧の目が子犬のように愛嬌のある人なので、顔くらいは覚えていた。名前は、何だっけ。
「もう、慣れましたか」
 グラビアの上を滑り込んだ声に顔を上げた。彼が煙草をくゆらせてこちらを見ている。私に話しかけたのか、とそこで理解して「ええ、まあ」と曖昧に答えた。
「市川さんが感心してましたよ、泉さんは出来る人だって」
「…市川さん?」
 頭の中を入力室の人々の顔が次々と巡った。誰だろう、と考えるのが判ったのか、彼はぽそりと「市川チーフ」と言って煙草の灰をトンと灰皿に落とした。
 あのチーフが?というのと、彼が私の名を覚えていたのとが意外だった。二週間経っても周囲の人の名前を覚えられない自分がなさけなかった。何となく俯く。
「派遣っていつもどのくらい居るんですか」
「だいたい一年、短くて三ヶ月から半年ですね」
「大変ですね」
「そうでもないですよ」
 短ければ全員の名前を覚えなくてもやっていける程度の期間だ。私が派遣を選んだのはこうした周囲に馴染みにくい性格のせいでもある。特にこういう、積極的に話しかけてくるタイプは苦手なのだ。善人なのは判るが、何を話していいか判らない。胃がぎゅっと絞られるような感じがしてきた。
「すみません、私ちょっと」
 雑誌を椅子の上に置いたまま立ち上がると喉の奧に何か固い物が詰まっているような気がして吐きそうになった。思わず壁に手を突くと「どうした」と彼が駆け寄った。私はその場にしゃがみ込んだ。
「吐きそう」
「吐きなさい」
 目の前に大きな掌があった。そんな訳にはいかない、と首を横に振る。「いいから」と背中をさすられると、もう堪えきれなかった。
 喉や口の中を、異物感がちくちくと刺しながら通っていった。痛くて涙が出てきた。なぜ、こんな感じがするんだろう。もう何も出て来なくなるまで吐き出した。
「…何だ、これ」
 目を開けると彼は掌の上を指で探っていた。何て事をする人なんだ、と驚いたが、それよりもそこにある透明な物がやけに不自然で、何が起きたのかまるで判らなかった。
 彼はゆっくりと私を振り向いて言った。
「セロハンテープみたいなんだけど」



 残業まで会社に居られたのは、その時の驚きのあまり、すとんと冷静になってしまったせいらしかった。昨日からろくに食べていなかったからか、吐いたのは殆どお茶だった。彼のネイビーのネクタイが手元で揺れていたのへはねてしまった。彼は暫く掌の上の、くしゃくしゃと丸まったテープらしき物を指先で弄んでいたが、黙って立ち上がると近くのトイレへ消えた。程なく雑巾を手に戻り私を椅子に座らせ、床を拭きながら「今日はもう帰ったら」と言った。私は頷くだけだった。通路の角の向こうから、休憩を終えた人達の賑やかな声が響いてきて、彼はそれじゃ、と持ち場に戻った。帰ろうかとも思ったが今朝の遅刻もあったし、吐いた事で少しは気分が良くなっていたのでそのまま残る事にした。
 彼がその不思議な出来事を誰にも話さずにいてくれたおかげで、私は『セロハンテープを食った女』という汚名を着ずに済んだ───何をバカな事を考えているのだろう。あれは本当にセロハンテープだったのか?
 寒気に背筋が硬くなるのが判った。「お先に失礼します」逃げるように入力室を後にした。早足で通路を抜けると、エレベーター前のフロアで彼とばったり会った。
「あれ、残ってたんだ。もう大丈夫なの?」
「はい」
 エレベーターのドアが開いた。既に一人、中年の男性が乗っていて、彼は頭を下げながら乗り込んだ。私も後に続く。ドアが閉まり、エレベーターが静かに動き始めると、低い声で呼ばれた。
「いずみ君」
「はい」
 私と彼が同時に答えた。思わず顔を見合わせる。男性が「おや」と呟いて笑みを浮かべた。彼は「部長、ワの字はつきますか?」と茶目っ気たっぷりに訊ねた。
「そう、ワの字の和泉君の方。そちらはつかない泉さんかな」
「入力室の泉さんです」
 そう答えて私を振り返り「紛らわしくてごめんね」と言った。
「例の件は、もう決めたのか」
「結構なお話ですが僕には荷が勝ち過ぎて」
「まあ、ゆっくり考えればいいさ」
 部長は彼を横目で見て微笑み、彼は鼻の頭を指先で軽く掻きながら無言で頷いた。こういう内容の見えない会話をエレベーターのような密室でされるのは嫌いだ。だが彼が和泉というのは知らなかった。と言うより、聞いていなかったのだろう。親しみを感じて、いつもなら耳を塞ぎたくなるような話を何となく興味を持って聞いていた。
 一階に着いて部長が先に降りた。こちらを振り返りながら「お疲れ」と軽く手を振る。気さくな感じの人だなと思ったが、どこの部長なのか判らない。顔は朝礼で一度見ている筈なのだが。「失礼します」と二人で頭を下げた。
「それじゃ泉さん、気をつけて」と帰ろうとする彼の横に並んで歩き出す。私はまだ礼を言っていなかった。
「今日はご迷惑おかけしてすみません。ありがとうございました。それからネクタイ汚しちゃって」
「たいした事ない」
 お詫びに食事でも、と言おうかと思ったが、『事』が事だけに言いにくかった。
「ちゃんと食べてる?」
 彼はそう訊いて、それがおかしかったのか突然クククと笑い出した。
「あんまりお腹空いたんで、それであんな物食べちゃったのかと」
「そんな訳ないでしょう」
「そうだね、ごめん」
 ようやく笑いを止めて、「奇妙だよね」と真面目な口調で呟いた。
 地下鉄の駅に向かって横断歩道を渡る。築地川公園を分ける道は橋の名残だろう、彼はふいに立ち止まると銀色の柵に寄り掛かり、両手をコートのポケットに入れた。首を傾げて私の顔を覗き込む。
「セロハンテープってどんな味なのかな」
「さあ、味はないみたいだったけど」
 私がそう答えると、彼はふふ、と笑ってポケットからセロハンテープを取り出し、小さく切った。
「味見だから、ちょっとにしておこう」
 私が「あ、」と言う間もなく、彼はそれをぱくんと口に入れてしまった。もぐもぐと噛む。何か不思議そうな顔をしながら、ごくんと呑み込んだらしく一度顎を引いた。と、右手で喉を押さえ「うっ」と声を洩らす。くるりと背を向けて俯き、柵に片手を突いてゴホッと咳き込んだ。今度は私が手を差し出した。
「やだ和泉さん、出しちゃいなよ」
「嘘」
 ペロリと出した舌にテープが貼り付いていた。
「バカ野郎」
 思わず突き出した拳が彼の額にヒットした。「あイテ、」と額を押さえてそのまま地面に座り込む。
「泉さんってそういうキャラクターだったんだ」
「和泉さんには負けます」
 睨み合っても何となく緊張感がない。とぼけた顔なのだ。
「自分を『さん』付けで呼んでるみたいで変だな」
「そうね」
「僕は和泉諒介。君は?」
「由加」
 派遣先の人の名をフルネームで覚えたのは久しぶりだった。



 丸一日、何も食べていなかった事になる。結局、夕食を一緒に採ろうと言い出したのは諒介の方だった。銀座の昔ながらの洋食屋だ。彼は眼鏡を拭きながら、私の質問に簡単に答えた。セロハンテープを会社から持ち出したのは、本当に味見するつもりだったという。「どんな味かと思った」とあっさり答えて眼鏡をかけるとニッコリ笑った。何か論点が違う。料理が並べられる間は黙り込んだ。ウエイターが去って、諒介はスプーンを手にして言った。
「子供の頃、口に入れてみなかった?ビー玉とか、消しゴムとか」
「あ、消しゴムはやった」
「でしょう」
 今は常識が口に入れる物を選ぶ。諒介はタンシチューを口に運んだ。子供の頃は好奇心が口に入れる物を選んでいるなら、彼は子供と変わらない。
「セロハンテープを呑み込む心理に興味があった」
 不意に真顔になる。表情がくるくる変わるその速さに戸惑う。彼の言う事が判らなくはない。だが、本当に私は食べていないのだ。
「自分でも判らない」
「うん」
「気持ち悪くない?」
「別に」
 ほっとした。得体の知れない何かが胃の中にある気色の悪さは拭えないが、少なくとも外からは判らない。それを掌に受けた諒介の言葉は簡潔であるほど説得力があった。
 彼は黙々と、食べる事に集中しているようだ。見事な食べっぷり。見ている方が気持ち良い食べ方って本当にあるのだと妙に感心してしまう。私の視線に気づいて、彼は目を丸くしながら、ちょうど口に入れたパンをごくんと呑み込んだ。
「食べないの?」
「あ、食べる」
 『食べる』という言葉は既に笑いを呼ぶ印になってしまったようで、私達はクックッと笑った。
 有楽町で諒介は「また明日」と言って銀座の方へ向かった。私は有楽町線の乗り場への階段の手前でそれを見送った。時々彼の右手がふっと動くと、その頭上で何かが光った。歩きながら放り投げているセロハンテープが外灯の光を受けている。変わった人だな、と思いながら階段を降りた。