寒い。
気がつくと暮れ方の淡い紫の空が目に入った。
───ここはどこ?
振り返ると丸い大きな噴水。公園だ。木々の向こうに覗くのは聖路加病院。
私はなぜこんな所にいるのだろう。
体が震えだした。コートも着ないで、私は何をやっているんだろう。
目線を上げて再び見回す。セントルークスタワー。
その向こうに隅田川がある。
見回しながら振り返り、私は諒介のビデオを思い出して勝鬨橋に向かって歩き出した。寒くてじっとしていられないのだ。
「由加」
後ろから誰かが駆けて来る足音と、私を呼ぶ声が聞こえる。けれどもなぜか振り向く気になれない。「由加、」と肘をぐいっと掴まれた。
「何やっとんねん」
「え?」
「しゃあないな」
澤田さんだ、とぼんやりと思った。そっちこそ何をやっているの、と思うが口に出せない。彼は内ポケットからスマホを取り出した。
「澤田です。由加を捕獲しました」
私は動物か。
「すんませんけど、ちょっと俺に任せてもらえませんか。はい、よろしく」
ずいぶんあっけない電話だ。彼はまたすぐどこかに電話をかける。
「俺や。由加おったわ。うん。今?聖路加の方から隅田川沿い。勝鬨橋の手前や。うん。何?」
しばらく黙って聞いている。「判った。ほなあとで」と電話を切って、いきなり「このドアホ」ときた。
私はまた辺りを見回し、日暮れ前で、ここが築地で、目の前に澤田さんが居て、と指差し確認をした。
「澤田さん、仕事は?」
彼は「ああああ」と言ってその場にしゃがみ込んでしまった。下から私を見上げる。
「おまえこそ何でこんなとこにおるねん」
「え?」
「やっぱり覚えとらんか?」
「え?」
「もうええわ」
まるで訳が判らない。澤田さんは立ち上がると私を上から下までじろじろ見て、コートを脱ぐと私に寄越した。
「ついて来い」
前をずんずんと歩く澤田さんを、コートを着ながら追いかけた。会社とは逆方向だ。彼は左に曲がって勝鬨橋を渡り始めた。歩調が緩くなって、私は彼と並んで歩いた。車が激しく行き交う大きな橋だ。諒介が秋に渡った映像とは反対側の歩道を行く。隅田川からの風が冷たい。どこへ行くのだろう。
私達は黙々と歩いて隅田川を越え、勝鬨橋を渡りきった。
澤田さんが突然足を止めた。
「さて」
回れ右して引き返す。
「え?」
またゆっくりと勝鬨橋を渡り始める。
「何やってるの、勝どきの方に用事じゃないの?」
また黙って歩いた。橋の中程で「もう大丈夫なんか」と訊かれた。
「大丈夫って?」
「だいたい良さそうやな。由加、給湯室でまた湯呑みぶちまけたやろ」
「あ、」
思わず立ち止まった。「私、仕事、」と愕然とした。澤田さんは立ち止まらずに振り返って言った。
「うん。市川さんにさっき断り入れたから大丈夫。でもあとで謝っとけな」
私はまた歩き出し、澤田さんに追いついて訊ねようとした。
「湯呑みって、チーフって、あの、」
「はい、縺れとる」
笑いながら彼は言って、昨日怪我をした時、病院へ行ったのを覚えていないのと同じで、また呆然として会社を出て来てしまったのだろう、と説明した。
「茶碗が割れると由加のネジが飛ぶんかな」
「え?」
「何かあったんか、さっき」
「…判らない。どうしよう、判らないの」
涙が出てきた。「また泣く。しょうもないな」と言われて目をこすった。
そうだ、私はすぐ泣いてしまう。
私も東京で力を蓄えようと決めたのに、さっきも諒介を呼んでしまった。
『向こうで本当にやりたい事をやっている諒介に帰って来てなんて言わないで』
私に、蓼喰い虫さんの事は言えないんだ。
大阪で一人、力を蓄えている諒介がどんどん先に行ってしまう。
諒介を待つどころか、これでは置いていかれてしまう。
ふいてもふいても涙が出てきた。
橋を渡りきると、澤田さんはまたくるりと向きを変えた。「はい、こっち」とまた橋越えを始める。
「さっきから何やってるの?」
「判らん。和泉がそうせえ、て言うからやっとる」
「諒介が?」
先刻の電話は諒介だったのだ。
「何で?諒介に知らせたの?誰が?いつ?どういう事?」
「あんなあ」と呆れた口調で言ってから、
「まず、由加が給湯室から戻って来ないちゅうて見に行ったのが森さんで、由加がおらへんと俺に知らせたのが市川さん。和泉に知らせたんは俺。由加探しを俺と古田だけでやれちゅうたのが和泉。ちなみに、由加発見を古田に伝えるのは市川さん」
私は何をやっているのだろう。
たくさんの人に心配をかけて。
「正月からだいたい判っとるから。無理せんでええぞ」
私は何をやってきたのだろう。
何も変わっていないじゃないか。
「和泉がな、こうやって、由加が判るまで橋を渡り続けろ、て言うねん。由加ならきっと判るから、それまでやれ、ちゅうて」
私は何をすればいいのだろう。
判るまで、って、それはいつなんだろう。
車が走り抜けるたびに橋が揺れる。こんなに大きな橋なのに。大きな車が追い越してゆくと少し怖い、崩れてしまいそうで。
勝どき側まで渡りきり、また築地に向かって歩き出す。
───そうするうちに判った事がある
橋は行き来するものだと
諒介もこうやってこの橋を何往復もしたんだろうか。
僕は何度でもこの橋を越えるだろう
何度も、行って、戻って。
僕は橋の向こうを見る
そこには何があるのだろう。
そう、確か諒介が名付けた橋の名前があったのだ。
君がそうしたように
誰?
バンドエイド・ブリッジか
思い出した。
諒介は私を待っているのだった。