スウィート・オブ・イースト-1

 諒介が私の部屋に風邪のウイルスを残していったんだ、と思いながら新年早々寝込んでしまって、会社を三日も休んでしまった。あけましておめでとうございます、などと一人遅れて挨拶するのが恥ずかしい。しかしそれよりも、我が社のビルの五階の給湯室はとんでもない事になっていた。
「何だ何だ」
 呆然と立ち尽くす私に、お茶当番で一緒の森さんがそこら辺にある物をざっと避けて薬缶を置いた。
「泉さん、まだ聞いてませんか?」
 森さんは昨年の春に新卒で入社した女の子で私とは歳も離れているから、皆のように私の事を「泉ちゃん」とは呼ばない。うふふと楽しそうに笑ってかくかくしかじか、と説明してくれた。
「へーっ」
 この五階には開発部とそのマシン室、そして私達オペレーターがデータ処理をする入力室があるのだが、その開発部の中嶋さんがクリスマスに入力室の飯塚さんにプロポーズをし、二人は正月に互いの両親に挨拶を済ませ、晴れてご婚約に至った、とこういう訳らしい。そのプロポーズの場所がこの給湯室なのだ。
「中嶋さんも、何てムードのない場所で…」
「中嶋さんですから」
と、中嶋さんであるゆえに納得されてしまう、そんな彼は無口で温厚、飯塚さんもおっとりした人で、おそらく洗い物などしている時だったのだろう。なんともほのぼのしたいい話ではないか、と私は思った。
「で、それがこの事態と一体何の関係が…」
「新たな伝説ですねえ」
 つまり、新年早々幸せいっぱいの二人の姿に、この給湯室はなぜか縁結び神社のような扱いを受ける羽目になってしまったのだ。巨大な湯沸かしはご神体のように扱われ、天井からリボンが幾重にも垂れ下がっている。その周囲にある様々な物はお供えなのか、お菓子だの真空パックの鏡餅だのブースカ人形だの、ジャンルを越えた雑多な物がごちゃごちゃと置かれている。そのお供え物や室内の壁には厚紙を絵馬の形に切った物やコピー用紙、付箋がべたべたと貼り付けられ、「415円(良いご縁と思われる)がありますように」とか「合コンに誘って下さい」とかの冗談半分な願い事が書かれていた。誰が作ったのか薄紙の花が幼稚園の教室のごとく飾られている。要するに全社員が総力を挙げて二人の婚約を祝っている訳だが、
「この会社って…」
「楽しいですねえ」
 一言で片づける森さんを私は「えっ」と見た。
 それから、そうだな、と納得した。時々、この会社は不思議な雰囲気を醸し出すのだ。普段の緊張感が不意に消えて、上下も関係なく一緒に遊びだすような。こうして話している間にも、見た事のない他のフロアの人が出たり入ったりしている。給湯室とは縁のなさそうな男性も、先刻『中嶋君、俺のカツサンド返してください』という付箋を貼って出ていった。入れ代わりに現れた女性も付箋を手にしてどこに貼ろうかときょろきょろとしている。かつてない給湯室の賑わい、謎の盛り上がり。楽しいかもしれない。
 急須を軽く洗ってふと横を見ると、森さんの付箋が目についた。『北海道行きたい!旅費ください。入力、森』と書いてある。「ふーん、森さんは旅行したいの?」と訊いた。
「そうだ泉さん、遠距離恋愛の秘訣って何ですか?」
「はあ?」
「彼氏が卒業して去年、北海道に帰っちゃったんです。暮れからちょっと険悪なんですよ。どうしたら泉さんみたいに上手くいきますか?」
「はあ?」
 森さんの真剣な顔に一歩ひきつつ、湯沸かしのスイッチを押すと、ボッ、と音を立ててお湯が薬缶に注ぎ始める。冬は洗い物にも使うため、温度は低めに設定してある。
「秋に来てた大阪の和泉さん。いきなり殴るなんていろいろあるんですね、泉さんも。でも彼も優しいじゃないですか」
「いや、あの後さんざん謝って歩く事銀座まで、ってそうじゃなくて」
 ドボドボとお湯の注ぐ音。早く溜まってくれ、と祈る心地。
「何や、由加も願かけに来たんか」
 通り掛かりに顔を覗かせた開発部の澤田さんが言った。付箋を貼って出ていく人に「すんませんな」と声をかけて避ける。
「澤田さん助けて」
「おう、助けたる。俺は女の子にはめっちゃ優しいで」
「知ってるから恩に着せないで」
 澤田さんという後ろ盾がついて、ようやく私はまともに喋れるのだ。口数の多い人に勢いつけて話しかけられると、私は酸素不足の金魚のようになってしまう。大柄な彼がのっそりと入って来ると、給湯室は急に狭くなった。
「だからね、森さんは、みんなが言うからそうだと思ってるんだろうけど、私と諒介は、何でもないんだよ。本当に。もう、力いっぱい」
 私はお湯を入れた薬缶を火にかけて、沸くのを待つ間に森さんに説明した。そこへ澤田さんが「しかし由加は」と口を挟んだ。
「和泉が唾つけたからな」
「澤田さん、部分的に言わないで」
 私ががっくりとうなだれると彼はワハハと笑った。
 下を向くと、毛先とタートルネックに隠れていた襟足の傷が覗く。私は『和泉が唾つけた』剃刀の傷の辺りをそっと撫でた。
 結局、私には遠距離恋愛の事は判らないから、入力室の先輩方───と言っても、派遣からこの会社の社員になったのが去年の夏で、私は森さんの後輩である───、市川チーフや杉田さんに相談するといいよ、と言って、急須にお湯を注いで戻る事になった。「すみません」と謝る森さんに、こっちこそ、と答えた。
 彼氏と険悪、と言う森さんが気の毒になった。大きな重い急須を持ってしゅんとして歩く背中を見ていると、あんな給湯室は辛いかもしれない、と思う。「北海道行きたい」の付箋に彼女の気持ちが二重写しになっている。
 私は立ち止まって、森さんが入力室に消えるのを見届けてから、何となく一緒に歩いていた澤田さんを振り向いた。
「あれ何とかなんないの?」
「何が」
「給湯室」
「縺れとるで、言語が」
 澤田さんは腕組みした。
 由加の話し方は途中の経路が縺れている、と何度も注意されていたのだ。私は先刻思った事を順序正しく話した。
「でも森さんみたいな人が願かけてんのも事実やで?最初はシャレやったか知らんけど、真面目にやっとる奴もおるやろ。───うん、よう見るとおもろいで。いや、失礼か知らんけどな」
 真面目に願をかけている人もいる、と言われて今度は私がしゅんとなってしまった。澤田さんはそれを見て取ったのか、おもろいで、と言って「由加、昼飯は何や」と訊いた。
「おにぎり」
「よっしゃ、すぐ食えるな。見に行こ」
 彼はニカッと笑って、人差し指でカムカムして給湯室に引き返す。
 確かに、面白かった。
「中嶋君、飯塚さん、ご婚約おめでとう。末永くお幸せに。式の日は友引でよろしく。杉田」
 杉田さんのように、願い事ではなくお祝いの言葉の物が三分の一近くあった。
 仕事関連の物が三分の一。残る三分の一が森さんのような願い事だ。署名なしの告白なんかもある。読んでいるこっちが赤面ものだ。
「あ、これ佐々木さんだ。似顔絵上手い、そっくり」
「何やこれ、食ったらブタになる。ダイエット祈願か」
「記憶喪失になりたい。開発、矢島。矢島部長に一体何が」
「春の展示会やろ」
「もっと光を」
「それは俺や」
「澤田さん、暗い」
 私が笑うと、身を屈めて付箋を読んでいた彼は振り向いて「神様に嘘はアカンやろ」と言った。少し困っているような笑いだ。私はこの年末年始を思い出し、軽く頷いてまた壁を見遣った。私が澤田さんの部屋のこたつでうたたねしている時、彼は諒介に「俺はずっと嘘ついてた」と話していたのだ。
 澤田さんにも首の後ろに傷がある。目には見えないけれど。
「何や、また増えとるな。…ふうん?由加、見てみ」
 こっちこっちと手招きされて歩み寄り、膝を曲げて顔を近づけた。
「何と」
「笑える」
 私達は顔を見合わせた。笑える、と言いながら澤田さんの顔は笑っていない。再びそれを見た。
 『和泉諒介さん帰ってきてください。』
 たっぷり十秒の間を置いた。
「面白い事になりましたね」
「俺はおもんないで、何で俺の名前はないねん」
「足が痺れてきちゃった」
「その話のそらし方、和泉に似てきたな」
 そう言われて、どうしたものかと考えた。「まいったな」と答えると澤田さんはぷっと笑った。



 私が遅れておにぎりを食べている間に、森さんの言う「新たな伝説」というのを教えてもらった。最初は中嶋さんと飯塚さんの婚約の報告、と言っても茶飲み話だったらしいのだが、その時に大河内さんが「あの給湯室がロマンチックに見えるかも」と言ったのへ、
「足を踏み入れただけでピンクのオーラが」
と市川チーフが両手でふわふわした感じを出すと、
「御利益ありそうですね」
 佐々木さんが何気なく言った冗談だったらしい。
 それでシャレのつもりで湯沸かし器に手を合わせたりしていたのが社内に広まってしまったのだ。皆お祭り好きだなあ、と私は思った。私は既にこの会社の前の伝説の主人公にされてしまっているので、新しい伝説は大歓迎だ。
 私は仕様ノートのページを一枚破り取って、何て書こうかと考えた。
 お幸せに、とかでは普通でつまらないし、かと言って佐々木さんみたいに似顔絵入りの面白い文章は書けないし、と自分のマシンの前でうんうんと唸った。席に戻ってきた佐々木さんに「お、泉ちゃんも書くんだね」と話しかけられ、「面白いネタない?」と訊いてみた。
「泉ちゃんも笑いを取る路線で来るか」と彼女は笑った。
「読んだら結構面白かったから。あ、佐々木さん、絵上手」
「ふふふ、漫画も描けるんだよ私は。イベントも行っちゃうぞ」
 イベントって何だろう?と思っていると、彼女はペン立てからボールペンを取って、私の目の前の紙の隅に印刷されたリラックマの顔に眼鏡を描いた。その隣のキイロイトリにウエディングベールを被せる。ブーケを持たせるとクマとトリのカップルは様になった。
「あ、中嶋さんと飯塚さんだね」
「えっ?」
「いいな、この絵使える。この紙使っちゃおう。よし、あとは名言を書くのみ」
 佐々木さんは何がおかしいのか、デスクに突っ伏してクククと笑い、「何て書くか楽しみにしてるよ」と言った。
 紙を手にしてじっと見る。リラックマとキイロイトリの顔が可愛くて、この絵ならやはりお祝いの言葉だな、とペンを取った。

  ずうっと一緒。

 正月に諒介と澤田さんと三人で初詣に行ったのを思い出した。学問の神様にお願いしてしまった「東京と一緒に」が尾を引いているな、と我ながら恥ずかしくなりつつ、下の方に小さく『入力 泉』と書いた。まだ昼休みは終わってなかったので、急いで給湯室に貼りに行った。お祝いは早いに越したことはないのだ。
 午後の休憩の時には、わざわざ見に行ったのか、佐々木さんが「名言だね」と誉めてくれた。「飯塚さんの雰囲気に合ってる」
 それを聞いた飯塚さんも給湯室まで行き、戻って来て「ありがとう」と言った。
「あの絵、可愛いね」
「佐々木さんが描いたんだよ」
 それからまた佐々木さんのいたずら描きが始まって、皆でそれを囲んで話が弾んだ。入力室や開発のメンバーの似顔絵が上手かった。佐々木さんは「澤田さんは髪型が難しいな」と苦戦していた。切れ長の目と角張った輪郭で澤田さんだと判る。最後に諒介の顔も描いた。細い顔に眼鏡をかけて、点目と一本線の口、癖のない髪もすっすっと線を引くだけだ。
「似てるー」
「すごい、シンプルな顔」
「無駄のない究極の造形美」
 本人の居ない所で顔の事で笑うなんて失礼だが、思いきり笑ってしまった。
 私はそれを貰って、定時に終わると澤田さんに声をかけた。
「みんなそっくりやんか」と澤田さんは感心し、諒介の顔に大笑いして「ファックスしたろ」と早速送り始めた。
「向こうの会社に送って大丈夫なの?」
「ここの親玉やで?」
 納得した。
「由加の見たで、給湯室の『ずっと一緒』」
「何で澤田さんが給湯室なんか」
「昼休みの終わり頃、ダーッて走ってったやろ?」と笑って、「何やこだわっとんのな、『一緒』言うのに」
「うん。気に入ってるんだ。中嶋さんと飯塚さんがずっと一緒、って考えたら何か嬉しかったから」
「そーか。うん、ええな。『一緒』」
「うん」
 私はまた彼と諒介と三人で過ごした冬休みを思い出して、その言葉が嬉しかった。
 だから、その翌日の昼休みにお茶をいれるために給湯室へ行った時は本当に驚いた。森さんが「泉さんの、どれですか?」と訊ねたので「そこ」と指さした。照れくさかったから壁の下の方に貼ったのだが、それがない。
「おかしいな、ここに貼ったのに」
「取れちゃったんですかね」
 森さんが湯呑みのカゴを載せた台の下を覗き込む。
「森さん、スカート汚れちゃうよ」
「大丈夫です。ここにはないですよ」
 床をきょろきょろと探していると森さんが「これですか?」と呼んだ。「あった?」と振り向くと、彼女の視線の先は屑カゴだった。私も覗き込んだ。
 リラックマ達は屑カゴの中に居た。私はそれを拾い上げた。くしゃ、と大きな皺が寄って『ずうっと一緒』の文字が曲がって見えた。
「ひどーい、落ちたんじゃないですよ、これ」
 森さんが怒った。私は泣いてしまった。