バックエイク-2

 自分を取り戻してトイレを出ると、テーブルの上に正露丸が置いてあった。
 思わずがくーっと脱力して床に膝を突いた。
「そんなに悪いのか、披露宴の飯は」
 和泉が真顔で追い打ちをかけた。
 実のところ、俺はこういう展開を期待していたのだ。和泉の面白さはよく切れる頭と天然ボケのギャップにある。鳥の巣にしろ、その材料の着眼点のユニークさはどこから来ているのか。俺にとって、一緒に居る、というだけで面白いのは今のところ、和泉諒介と泉由加の二人なのだ。
「これやるわ、俺は食われへんし」
と引き出物の袋からバームクーヘンの箱を取り出して渡した。和泉はニコッと笑った。食べ物を前にしただけで、この幸せな笑顔。泣けてくる。
「まだあるで、ほらほらほら」
 鯛の尾頭付きだの赤飯だのを出すと和泉は「わあ」と言って喜んだ。
「…夕飯、これ?」
「安心せえ、他にも作ったる」
 もう帰ると言っておいて、本当は翌日まで休みを取っていた。一宿一飯の恩義ならぬ二宿の恩義。『飯』の方は俺がおさんどんである。幸せそうに赤飯を眺めていた和泉が不意に「澤田、」と呼んだ。
「何や」
 俺はジーンズとパーカーに着替えながら訊ねた。
「うん、その、」と視線は明後日の方角だ。
「泣く程腹が痛いなら、無理に飯を作らなくても」
「何?」
 俺は咄嗟に鏡を見た。不覚。「あーあ、まいった」と和泉の口癖が伝染して、俺は腰掛けたベッドに仰向けに転がった。
「うん、久々にこっち戻って、ちょっと振り返っただけやねん」
「振り返ったのか」
 フッ、と笑いとも吐息ともつかない音をさせて和泉はそう言った。エスプレッソマシンがシューッと蒸気を噴きだし、彼はミルクの泡をカップで受けとめた。どうぞ、と促されて起き上がりテーブルに着く。相変わらず物は積み上がったままだ。彼は俺の座る椅子の脇に脚を投げ出して座り、壁に寄り掛かった。
 コーヒーを啜って沈黙するうち、和泉の視線はふらふらとさまよいだした。何か考えているようだ。どうした、と訊ねると「うーん」と言って笑い、眉を下げた。
「実は、その、」
と言って和泉は眼鏡を外し、目を擦った。
「うーん」
「由加の事か」
「ああ、すみません」
 いったん手にしたカップを乱暴に床に置いて、その手で片目を覆った。
「何しでかしたん」
「ポカやった。口が滑って眠かったからまずい事に」
「倒置法としても妙やで」
 和泉の口調がおかしくなるのは困っている時だ。口下手なせいだろう。彼は眼鏡をかけて気まずそうにこちらを見た。
「順序正しく話せ」
「由加の部屋から澤田の所へ電話した後、里美さんの話をした。里美さんが由加を振り返っていたという事に関して、澤田の言葉と同じ意味に取っていい、と言った。確かに、由加の脆さゆえに覗く、その、ホットな部分と言うか、その、」
「はいはい」
「それは思わず振り返るような類のもので、だから里美さんもそうだと思うし、間違っていないと思う。だけどそれを澤田が」
「俺がか?」
「うん。うらやましい、と言ったのを考えに入れなかった」
「アカンのか?」
「うん。あの時の由加の変調は、里美さんの一言から来ていると思えた。『振り返る』という言葉がそもそもの発端なんだ。そこへ澤田が『居ない人の話』、つまり振り返る行為だ、それを『冷酷』と言った。由加は『振り返る』という事を恐れるようになって、その、…心に変調を、来した、と。澤田の真意次第では危なかった、いや、僕は、澤田が彼女を安心させるためにああ言ったんじゃないかと思ってる」
 和泉のうろたえた口調は、最後の方にはいつもの調子を取り戻し、静かな笑みで真っ直ぐに俺を見た。こうなると隠し事はできない。
「…それもある。認めるわ。あれは話半分や」
「うん。だから、なるべく核心に触れないようにしていたのに、肝心の所でやってしまった」
「何を」
「由加自身が気づかずに恐れている事があると口にしてしまった」
「…アホ」
「ああ、澤田のせいにしておけば良かった」
「おい」
「いや、言わなくても済んだって事だ。その一言だけ」
 和泉の顔は苦痛に歪んだようだった。
「おまえが言わんでもいつか気づくやろ」
「そうだろうか」
 くわえた煙草に火も点けずに、ぼんやりとどこかを見て呟いた。和泉には時々、彼の眼前のどこか遠くに何かの存在を感じる事がある。
 はあ、と俺は溜息を吐いた。パソコンデスクのガラス瓶がスクリーンセーバーの絵を映してちらちらと光る。あれは何なのだろう、とぼんやりと思った。
 東京に戻ってその数日後、由加と一緒に夕飯を食べに銀座の釜飯屋に寄った。
「向こうで和泉に会うたで」
「へえ、元気だった?」
「相変わらずや」
 そう答えながら、確かに和泉の言う通りだ、と思った。周囲の皆が言うような二人ではないのだ。二人揃って不精者とはいえ、ろくに連絡も取り合わないで平気でいる。
「今度は何や工作しとったで」
「工作?諒介らしいな、子供っぽい」
 由加に言われるようでは終わりだ。
 そこで、寄り目になってセロハンテープを丸めていた和泉の様子を話して聞かせた。
 由加は「鳥の巣か」と答えてぼんやりとテーブルの醤油差しを見つめ、鶏釜飯の上を箸が空振りしているのにも気づかず何事か考えていたが、突然ぽっと赤くなってふわっと笑った。
 いつもの「バカ野郎」の決め台詞とともに拳を繰り出すあの由加と同一人物とはとても思えない顔。
 俺は恥ずかしくて居たたまれなくなってしまった。
 見覚えがあったのだ。
 それに気づいて、じっと見た。
「何?」
「いつもそんなんやったらええのに」
「何が」
「顔」
「はあ?」
 びっくり眼の由加はもういつも通り唇を尖らせ、
「顔なんていつも同じじゃん、早く諦めた方がいいよ」
「そうなんやけどなかなか諦められへん、って何で俺の顔を諦めなアカンねん」
「うそうそ、澤田さんは結構男前だよ?黙ってればだけど」
 自分で気づいていないのか。処置なし、と俺は沢庵を口に入れぽりぽりと噛んだ。



 郵便受けにファンシーな絵柄の封筒と、茶封筒が入っていた。茶封筒の差出人は『和泉諒介』。プチプチの緩衝材の手応え。部屋のドアを閉めながらダイレクトメールを流し読みして避けてテーブルに投げ出し、可愛いが厚い封筒の裏を見る。『橋口ゆかり』。
 この前の写真だな、と封を切った。

  澤田智彦様
  先日はお疲れさまでした。
  せっかく東京から来られて久しぶりにお会いしたのに
  ゆっくり話もできず残念です。
  披露宴の写真ができたのでお送りします。
  お正月にはまた惣一おじさんの家で集まりましょう。
                    ゆかり

 封筒から写真を抜き出す。一番上に、両親と俺の写真があった。一枚めくると、直人と俺が親指を立てて笑っている。次はいとこ達の写真。椅子に腰掛け、テーブルに一枚ずつ広げていく。ゆかりと俺。兄と俺。新郎控え室で撮った写真だ。兄の顔が緊張でひきつっている。
 披露宴での「ご歓談」中の親戚達と一緒の写真が二枚と、終わったあとの金屏風の前での親戚一同の写真が一枚。兄と咲と、ゆかり、直人、俺。
 このあと、「咲子さんと一緒に一枚」とゆかりが言うのを「誰が旦那だか判らんようになる」と笑ってかわしたのを思い出した。
 写真を持つ左手が、ぽろりと落ちた。
「うわ、」
 何ともなかった。
 手首から先が切り落とされたように、不意に落ちたような気がしたのだ。「気色わる」と声に出して、静まった部屋を見回した。動悸を抑えて和泉の送ってきた封筒の端をびりびりと破いて開けた。ブルーレイディスクだ。相変わらず唐突な事をする。
 テレビに見慣れた風景が映って、この前彼が撮影したものだな、と横目で見ながら冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取ってコップを手に部屋に戻った。
 いかにも和泉が好きそうな音楽が流れた。休憩所の佐々木さん、中嶋、飯塚さん。這い蹲って自販機の下に手を入れている中嶋の顔がアップになって、口をぱくぱくさせるのがおかしかった。擦れ違いざまに「ばん」という形に口を動かし、右手を銃のように向けて走り去る市川さん。彼女はいつも走っている。
 古田と俺が映った。写真でもビデオでも、カメラの類を向けられると気恥ずかしくて何かせずにはいられない俺は人差し指をくるくる回していた。画面が暗転する。気の利いた編集だ、と思った。
 目を回した和泉が気づくと───と解釈すればいいのだろう───そこは入力室だ。奧の休憩室から手を振る杉田さんと松岡さん、森さん。大河内さんは照れ笑いで目をそらす。と、和泉の視線は横に流れて由加が映った。何か言っている。和泉が近づいて彼女の前に座ったらしい。由加は唇を尖らせて目をきょろきょろさせた。何かに似ている、この顔。そう、子供の頃に見たクレイアニメーションのペンギン、と思い至って吹き出すと、画面の由加が不意に笑った。
 あの顔で。
 俺は台所のテーブルを振り返った。目を戻すと矢島部長が掌で和泉の視界を遮るところだった。自分が目隠しされるようで思わず目を瞬いた。
 目隠しを解かれた和泉は、今度は築地の街並みの中に居た。裏道の細い路地を覗き込む。彼の目はこうした、古くから継続されている時を選び取って見ているようだった。築地から離れたのか、知らない町の坂道は滑り止めの輪を刻んで頭上に伸び、彼は空を見上げるように坂の上を見て歩く。街の静けさを様々に切り取ったような映像がしばらく続いて画面は暗くなった。
 終わりか、と再生を止めようとすると和泉の部屋が映った。この前泊まった時に撮ったものだ。それまでの映像と違い、音楽はない。食事をしている、カチャカチャと食器の音、フッと笑うような溜息、伏し目がちの俺。カメラの方を見ない。
  貸せ
 撮られてばかりでは癪なので和泉からカメラを奪い取った。フォークでサラダをつつく和泉がちらりとこちらを見た。
  まいったな
  せやろ?
  うん
 つまらない会話だ。
 室内での撮影ならではの薄暗さと画面のざらつきに、その場の空気が見えてくる。
 また画面に戻された俺はくたびれて椅子に凭れて正面をぼんやり見て笑いを浮かべている。片脚を抱え、少し眠そうだ。ギターの音がぽつぽつと流れる。
 こんなところも撮っていたのか、と驚いた。確かこの時は、俺の正面に座った和泉が傍らにビデオカメラを置いて、ギターを手にしていい加減なフレーズをだらだらと弾き続けていたのだ。画面の俺は時々首を傾げたり、フッと笑っては真顔になったり、横を向いたりした。不意にギターの音が止んで、画面が揺れた。俺がズームアップされる。
  澤田、
 呼ばれた俺はニーッと笑った。
  不気味な顔だ
 ガチャガチャ、と音がして画面は真っ暗になった。



「へえ、」と煙草を持つ手を止めた。
「もうそんなやった?」
「うん」
 古田の長女の七五三だ。月曜の午後、五階の休憩所で一服。昨日お宮参りをしてきたのだと古田は言った。
「でもやっぱり女の子って言うか、着物着たら人格変わるねえ」
「そーか?」
 ゆかりは全然変わらなかったが。きっと着すぎて感覚が麻痺しているのだ。
「いっちょ前に澄ましてんの。フフフ、草履が脱げないように踵にゴムついててね、それでも歩き方がこんな」
 ソロソロと歩く娘の様子を両手の小さな動きで示す。
「何かもう、こましゃっくれちゃって、こないだまで夜泣きしてたかと思ったら早いもんだねフフフ」
 古田はデレ、と目尻を下げた。
「歳とる訳やなあ、子供ら見るとそう思うわ」
 友人やいとこの子供の成長速度のすさまじさ、大人との、時間の流れ方の明らかな違い。大人になると振り返る事が増えるからか、振り返る先は時が止まっていると言ったのは、和泉だったか、由加だったか。
 幾度となく振り返るそのたびにそこに居るのは、あの時の彼女だった。
 彼の様子を話すと、真顔で聞いていたのが、ふっと微笑んで俺に言ったのだった。
 判った、と。
「この次は下の坊主と一緒だからねえ、一遍に済むと言うか金かかると言うか」
「ははは」
「あら、古田君が親父モード入ってる」
 煙草を手に現れた市川さんがにやっと笑って会話に参加する。古田は「だって親父だもん」と答えた。
「そういう市川さんは」
「私?うーん、結構長いつきあいだし、今更って感じだねえ」
「今更の一言で片づけられる彼」
 人それぞれだ。今更と言い切る市川さんと、ずっと待っていた彼女。二人の歳はそう変わらない。市川さんの隣に、彼女の幻が見えそうだった。俺は煙草の火を消したのを機に立ち上がった。
 判った。
 そう言って彼女は頷くと歩き出し、振り返った。
 ありがとう、智彦君。
 俺は笑顔で、早う行ったって、と答えた。