バックエイク-1

 その時の彼の様子を話すと、彼女は真顔で聞いていた。
 それからしばらく黙っていたかと思うと、ふっと頬を染めてそれはそれは幸せそうに微笑んだので、こちらが恥ずかしくなって逃げ出したいくらいだった。



 その時、彼は何か作っている最中だった。
「いらっしゃい」と玄関に出迎えた彼はすっと部屋に戻り、作業を続けるべく部屋の真ん中のテーブルに向かった。俺は彼のこういう態度には慣れているので、部屋の隅に荷物を置いて、パソコンデスクの椅子を引いてテーブルの前に置き、彼の向かいに座った。彼が必要と認めた物しかない部屋には、客用の椅子などない。
 テーブルの上には乱雑に物が置かれ、彼は真剣な顔でセロハンテープを細長く丸めて、紙縒りのような物を作っているところだった。彼の目の前には今まで作っていたのであろう、透明の紙縒りがおそらく百本近く積まれ、白っぽく光っていた。
「何やっとんねん」
「うん」
 彼が答えないので、紙縒りの山の横の瓶を見る。底の方に、白い紙を細長く切った物がくしゃくしゃと敷き詰められていた。ギフトボックスなどに緩衝材として使われるアレだ。
 彼はよし、と呟いて、セロハンテープの紙縒りを少し残して取り、それを雑にまとめて円い形に整え始めた。浅いカゴのような物が出来た。直径5センチくらいの小さなカゴだ。彼はそれを瓶の中にそっと入れた。
「それは?」
「セロハンテープ」
「見りゃ判る」
 それから彼はピンセットでセロハンテープの紙縒りを一本一本、瓶の中のカゴに差し込むように継ぎ足していった。時々瓶を回して見る角度を変え、ピンセットで形を直してゆく。やがて満足げに頷いてフッと笑った。彼は立ち上がり、テーブルから離れた。
「何やこれ」
「鳥の巣」
 ほー、と瓶を上から覗き込むと、彼は部屋の隅から箱を持って戻り、座って蓋を開けた。そこには肌色の丸い物がいくつも入っていた。
「これは?」
「バンドエイド。満足いく形のが出来るまでに一箱費やした」
「うーむ」
 彼は瓶の上から『鳥の巣』を覗き込んで大きさを見ているのか、丸めたバンドエイドをとっかえひっかえして選んでいた。なるほど、言われてみればバンドエイドは卵形に丸めてある。彼は二つを選び出し、瓶の中にぽとんと入れてピンセットで位置を決めた。
 ふう、と息を吐くとまた立ち上がる。彼はパソコンの前に置いてあった何かを取って戻った。目の前で慎重にピンセットに挟み、静かに瓶の中に入れる。
 それは青い石だった。
 椅子を取る時にも気づかなかった程の小さい物で、いびつな形をしている2センチもないだろうそれは、バンドエイドの卵より少し大きく、肌色に映えてきれいだった。
「見よ、この見事な色彩感覚」
「おまえが色をつけた訳やないやろ」
「じゃあ、バランス感覚」
「それは認めたるわ」
「うん」
 彼は大きく頷いて鳥の巣の出来映えをじっと見つめていたが、ふっと肩を落とした。
「ああ、する事がなくなってしまった」
「茶ァくらい出せや」
 彼はアハハと笑って「冗談だ」と言ったが、いや絶対本気だった、と俺は思った。



 和泉諒介は、仕事専用の優秀な頭脳の他はまるでピンぼけという男である。とぼけた顔に黒縁眼鏡をかけ、あんなに食べてまだ足りないのかと思うほど痩せており、口数少ないので何を考えているのか判らない。以前、会社で和泉を「ミステリアス」と評した女子社員が居たが、物は言いようだ。
 先程言ったように彼の頭脳は仕事専用であるから、他の事には使われていない。あとは全て感覚でまかなっているのだ。例えばこの鳥の巣のように創作的な部分や人付き合いなど。しかし感覚は所詮個人主義なため、理解不能なのである。
 一部の人間を除いて。
 その一部の人間の一人が俺だ。和泉の思考には一定のパターンがあるという事さえ判れば、ミステリアスでも何でもない。そしてもう一人が泉由加だ。
 由加は一言で言って、和泉のオモチャである。
 仕事と食う事以外には無頓着な和泉がなぜか執着する女で、先月和泉が東京に出張の折に俺と彼女の勤める会社───そこは和泉が以前勤めていた会社でもある───を訪れ、半年振りに再会したその瞬間、和泉をゲンコで殴るという気性の激しい面を持っている。その激しさで何事にも突っ走り、仕事は優秀、義理堅く、すぐ騙される上に嘘はつけない、好意を示すのも怒るのもバカ正直、とくれば、面白いと言う他にない。要するに子供なのだが、手が早い事を除けば可愛い奴なのだ。
 由加は、和泉のその感覚で生きている部分を理解できるという点で、和泉の周囲には居ない貴重な女性だ。いや、彼女は時々「諒介って訳わかんない」と口にする。しかしそれは彼女が和泉を、やはり感覚で理解している事に気づいてないだけだ。口下手な和泉が言えない言葉を感覚で掴んでいる。
 和泉はコーヒーをいれた。テーブルの上の物を積み上げて空間を作り、そこにカップを置いた。先刻までの繊細さはどこへやら、見れば床にもぽとぽとと様々な物が落ちている。和泉は椅子にすとんと座って、また鳥の巣をまじまじと見ていたかと思うと、不意に、ふにゃ、と相好を崩した。
 不気味だ。
「何でこんなん作ったん」
「前から作ろうと思ってたんだけど、先月まで殺人的に忙しかったんだ。今月やっと暇になったから」
「そーやのーて」
「ああ、何となく」
 やっぱりずれている。
「それで、」
と和泉は煙草に火をつけながら訊ねた。
「お兄さんの結婚式で来たのに、どうしてわざわざ僕の所へ?」
 そこで東京の雑音を届けてやる事にした。
 由加が皆の前でいきなり和泉を殴って一週間後、彼女の所属する入力室の市川チーフや佐々木さん、杉田さんと、俺や古田などの開発部の数人で飲みに行った時、市川女史はこうのたもうた。
「おまえら、鬱陶しいからさっさと片づけ!」
 悪意はないが、口は悪い。
 もちろん、この席に由加は居なかった。和泉はそんな声の届かない所で呑気に工作している。
「鬱陶しいって言われても」
 がっくりと俯いて苦笑する。
「まいったな、何て言えばいいのか、その、由加は放っておけない、でもそれはみんなが言うような感情からじゃないんだ」
 放っておけない、と言うのも判らなくはなかった。
 先月も俺が何気なく言った一言で情緒不安定に陥ってしまうような由加なのだ。気性が激しい分、すさまじく自分を追い詰めてしまう。しかし女性は往々にしてそういう部分を持っており、由加に限った事ではないと思うのだが、あとは和泉の好みの問題なので考えるのは省略する。
 和泉は口を閉ざして俺の顔をじっと見て、困惑の笑みで頷いて「言えないか」と視線を外した。俺は和泉の質問に答えていなかった。彼は鳥の巣の瓶の蓋をキュッと閉めて立ち上がり、それをパソコンの前に置いた。



 翌朝、これから新幹線で到着する事になっている俺は、のんびりと起きて身支度をした。礼服を身につけて白いネクタイを手に取る。
「何や白ネクタイちゅうんは恥ずかしいもんやなあ、葬式の方がよっぽど落ち着くわ」
「縁起でもない事を言うな」
 和泉はこちらも見ないで唇を尖らせた。起き抜けのパジャマ姿のまま、くわえ煙草でぼんやりしている。
「火が落ちるで」
「大丈夫だ」
 両脚を投げ出してベッドの上に座る和泉は、煙草のちょうど真下辺りの脚の上に灰皿を構えていた。
「澤田」
「何や」
「その、」
 和泉は首を傾けた。
「旨いもん食って来い」
 和泉の笑いはどこか曖昧だ。他に言いようがないのかと思いながら笑い返した。
 兄、浩平の披露宴が行われる結婚式場は和泉の部屋から地下鉄で一本、三十分もしないうちに着くと、いとこのゆかりが「智ちゃん、こっちこっち」と振り袖の袂をひらひらさせて手招きした。
「ゆかり、いつまで振り袖なんや」
「今年いっぱい着倒したるわ」
「そんだけ呼ばれてんのやな、結婚式。呼べ、自分で」
「ぐっ」
 叔母が「智ちゃん、もっと言うたって」と笑い、その横の母が「ゆかちゃん、気にせんといて」と苦笑する。
 ゆかちゃん、と聞いて頭にぽんと浮かんだのは由加だった。
 例えば由加が友人の披露宴にでも招かれたら、ドレスアップするんだろうか。いつもパンツスーツ姿で、土曜日の出勤ともなればくたびれたジーンズに薄汚れたスニーカーで、スカート姿を見た事がないと言ったらボカンと殴るような奴である。想像もつかない。
 俺はゆかりと交代で親族控え室のカメラマンとなって、挨拶がてらに写真を撮ってまわった。結婚式はひと月前に兄と嫁さんの二人だけで海外で済ませており、今日は披露宴だけだ。皆くつろいだ様子で和やかに談笑、と言えば聞こえはいいが、所詮関西弁飛び交う笑いの渦である。その賑やかさは東京のそれの五割増しだ。
「浩ちゃんとこ行こ、智ちゃん」とゆかりが俺の腕を引っ張った。
「着物の時くらいしとやかにせえ。着崩れるで、まだ始まっとらんのに」
「大丈夫」
 ゆかりは俺の手を引いてずんずんと廊下を進み、新郎控え室のドアをノックした。どうぞ、と返事があってドアを開けると、紋付き姿の兄が部屋の真ん中の椅子に座って空間を持て余していた。
「よう、智彦」
「ご無沙汰してます」
「何や他人行儀な」
「いや、他人に見えるわ」
 俺が笑うと兄は「何や新郎ちゅうのは恥ずかしいもんやなあ、何で真ん中に置かれんねん」と先刻の自分を思い出させるような発言をした。
 やはり兄弟だな、と思う。似ているところが多いのだろう。
「新郎新婦を隅っこに置いてどないするん」
と言ってゆかりはカメラを構えた。「智ちゃんも入って」一枚撮る。俺はカメラを受け取って、兄とゆかりを撮った。振り袖のくせにピースはやめえ、とファインダー越しに言った。
「ほな、あとでな」
「ああ」
 部屋の真ん中の椅子から動かない兄を残して親族控え室に戻った。
 披露宴の準備が整って、皆ぞろぞろと会場に移動を始めた。
 母が「智彦、咲ちゃんには挨拶したの?」と訊ねた。咲ちゃんとは、本日の花嫁の咲子さんだ。
「今更挨拶もないやろ、昔っから知ってんのやから」
「こういう時の挨拶は大事にせなアカンよ」
 母の留袖を見るのは数年振りだ。入口でのお辞儀の合間に短い会話を交わす。最後に末席に着いて間もなく明かりが落ちた。新郎新婦の入場だ。
 緊張の面持ちの兄と、白無垢の咲子さんが並んで入って来た。スポットライトが当たると花嫁衣装は青白く見えた。ゆかりの弟の直人がビデオに撮っている。主役達が着席するまで拍手が続く。
 型通りの挨拶の後、先月の結婚式の事が報告され、二人の略歴と馴れ初めが紹介される。「お二人は中学の同級生で」そう、近所に住んでいたのだ。「大学時代にアルバイト先で再会、親しくなられ」兄からさんざん聞いている。「長い年月に愛情と信頼をあたためあって今日の佳き日を迎えられました」
 そう、今日になったのだ。
 二人は時々小声で言葉を交わし微笑み合う。カメラを構えて、遠いな、と思った。
 乾杯と祝辞、祝電、と滞りなく進んでゆく。やがて花嫁のお色直しとなって二人は部屋を出て行った。司会の「ご歓談ください」の一言で、皆一様に肩の力を抜く。ハーッと声に出すな、ハーッと。笑いそうになった。俺はビールの瓶を持って酒を注いでまわり、咲子さんの親戚に「末永くよろしく」と何度も繰り返し頭を下げた。南の島での結婚式のビデオが大きなモニターに映し出され、皆それを見ながら「ええ所やね」「咲子さん、綺麗やな」などと口々に話し合っていた。空になった瓶を手に会場の隅からモニターを振り返ると、指輪の交換で涙を浮かべる咲子さんの顔が大写しになっていた。
 ようやく戻った兄は白いタキシードの胸に花など付けて、また別人のようだった。兄の腕を取る咲子さんの細いウエディングドレス姿の美しさが俺の目に馴染まない。こういう華やかな席は苦手だ。俺は披露宴などやるものか、と思う。キャンドルサービスに何の意味があるのだろう、と思いながら直人に声をかけた。
「おまえ、食うとらんやろ」
「助かった」
 苦笑する直人からビデオカメラを受け取った。
 二人は各テーブルの蝋燭に火を点けてまわり、両親と俺の空席のテーブルまで来ると、火を点けてから俺を見た。俺は録画を止めてビデオを持つ手を下ろした。
「おめでとう」
 兄は何も言わず頷き、咲子さんは口の中でありがとうと言ったらしく、かすかに唇が動くのが見えただけだった。二人がすっと離れた。
 それが何度も繰り返し、録画してもいないのに、ビデオを再生するように目の前に見え、その後の友人代表の祝辞や歌、花束贈呈や咲子さんから母親への手紙などは何の印象も残さなかった。
 披露宴が終わって、式場のロビーで皆がくつろいでいるところへ「もう帰るから」と告げた。
「家に寄らへんの?」と母。
「遅くなると疲れるからな」
「東京か、大変やな智ちゃん」
 お先、と引き出物の袋を手にして式場を後にした。
 和泉の部屋に戻ると、彼は「おかえり、どうだった」と言った。
「結婚式ちゅうのは、ええもんと相場が決まっとる」
「そうか」
 脱いだジャケットを椅子に掛け、外した白いネクタイもそこに置いて、俺はトイレに入った。兄の居た控え室みたいだと思った。真ん中の椅子、真ん中の便器。持て余す程の空間と過剰な装飾の気色の悪さに比べ、ここは何と落ち着ける狭さなのだろう。不必要な物が一つもない。俺は便器の蓋を閉めてそこに座った。
「咲、」
と口に出して両手で顔を覆った。