ブルーベリー・ブルー-5

 朝、目を覚ました諒介と一緒に、夜中に音を消して観ていた映画をもう一度観た。今度は音を聞きながらだ。諒介は音楽好きでもあるから、こういう映画は好きだろう、と思った。私はもう何度も観ているので、バンドのメンバーも揃わぬうちに眠くなってきた。ベッドの角に寄せた頭をゆらゆらと振った。
 驚く事に、あれ程怖いと思っていた諒介の顔が私のすぐ後ろにある。
 私は、年が明ける前のあの幸福感を思い出していた。時々諒介が後ろでクスッと笑う。テンポよく展開する画面と讃岐弁の会話。
 何がそんなに怖かったのか、と考えてみようとするが頭が働かない。ただ、『君が由加』と言われて、安心したのかもしれなかった。
 髪は切ってしまったけれど。
 うとうとしていたら、スマホが鳴った。澤田さんが「これから出る」と知らせてくれた。海辺のデートの場面の頃に着いた澤田さんは、私の顔を見るなり笑った。
「寝てへんのやろ。あーあ、飯も食わんと。ばちが当たるで、俺の」
 奧へずんずんと進んで「こっちはよう寝た顔しとるなあ」と言い、テレビをちらりと見て戻ってきた。
「今日はまた俺んとこに泊めるわ」
 私はお茶をいれながら、ふと気づいて言ってみた。
「忙しいね、澤田さん。休みなのに」
「そーや、せっかくの正月が和泉のおかげで丸つぶれや」
 向こうの諒介に聞こえるように大声で言う。諒介が「すまないねえ」と、また時代劇の病人ふうに言った。私はお茶をテーブルに置いて、澤田さんの買ってきた氷を水枕にガラガラと入れた。それを持って行き、はいと諒介に渡すとまたそこに座った。澤田さんがそれを見て、お茶を手にするとこちらへ来て、諒介の足元の方の角に寄り掛かって座った。
 また、不思議な感じがやってくる。
 映画は学園祭の準備で盛り上がっていた。
 私達はそれを静かに見ている。
 新年へのカウントダウンの時のようだ。
 期待と興奮、あたたかな視線、取り合う手と手、そんなものを箱の外から見ている。
 この部屋という箱の中で。
 世界は入れ子の箱のようで、私達の居るこの箱を、誰か外から見ているかもしれなかった。私達のように黙って、静けさに浸って。
 映画が終わって、私達は、諒介が東京に居た頃のようにお喋りをした。今飲んでいるお茶が佐々木さんの旅行土産だという事───空港から真っ直ぐ会社に寄ってくれたらしい───や、中嶋さんや古田さんの事、仕事の話に大阪の話。私が時々うとうとすると二人は笑い、諒介が眠そうにすると私と澤田さんは小声になった。
 諒介が眠ったので、私達はキッチンに移動した。またお茶をいれる。「旨いな、これ」と澤田さんが言った。佐々木さんが澤田さんに買って来たのはポップなパッケージの呪い人形と針のセットだった。「大英帝国は謎の国やな」と澤田さんを唸らせた、今回いちばん笑えるお土産だった。
「もう、怖くないんか」
 横目で奧の間をちらりと見遣って、澤田さんはカップを手にした。
「…うん、今は。でも判らない、時々怖いかも」
「はは、そんくらいでええ」
 澤田さんはまた手早く昼食のリゾットを作った。「正月は普通、こんなに作らんで」と泣き真似だ。私は「すまないねえ」と諒介の真似をした。
 時間がくるくる回っている。心地よく行きつ戻りつ、少しずつ移ってゆくのが判る。
 澤田さんは「食ったら行くぞ、布団替えるから早うどけ」と諒介を足蹴にして叩き起こした。私が背を向けてリゾットを食べている間、後ろでばたばたと音がした。着替えた諒介が「ああ、さすがに腹減った」と流しの方まで行き、鍋を覗き込んだ。
「もう大丈夫なの?」
「大分いいよ。面白かったのにな、残念」
「バカ」
 食べ終えた私が皿を下げると、入れ替わりに諒介が座って食べ始めた。
 ピリリリリリ。
 諒介のスマホの着信音だ。澤田さんがスマホを持ってこちらへ来た。諒介は受け取って「はい」と言った。
「…あ。どうも。おめでとうございます」
 おじぎしたのかと思ったら、そのままごつんとテーブルに額をぶつけた。
「いや、すみません、その、香奈は悪くないから。すみません黙ってて」
 私と澤田さんは顔を見合わせた。「おふくろさんやな」と澤田さんは小声で言った。
「…え?」
 がば、と起き上がった。
「いや、その、それは、いえそんな、…うーん」
「出た、イヤソノ星人」
 澤田さんと私はぷっと笑った。電話に声が入らないよう、二人でテーブルの脇にしゃがみ込む。
「それは関係ない」
 不意にいつもの口調に戻る。私達は諒介の方を振り向くが、そこはテーブルの下だ。顔は見えない。
「今、本当に仕事が面白くて大阪に居る。それだけなんだよ。…え?今?東京に居る」
 フッと笑い混じりの吐息だ。私達はテーブルの端につかまって覗き見た。それを横目で見た諒介は「わ、何だ何だ」と言って笑った。
「ああ、今、友達と一緒に居る。うん。…え?そう、一緒」
 楽しそうに言って、またふっといつもの頼りない笑いを浮かべた。「あの、」と右手で額をごしごしとこする。何か言おうとしているな、と思った。
「…時間が、経って」
と言うと困った様子で私達を見て、くるりと背を向けた。
「いろいろ、あって。その時間の中で」
 澤田さんが人差し指でカムカムと合図して、テーブルの周りをそーっと四つん這いで移動する。諒介の前にまわろうと言うのだ。私は笑いをこらえて後に続いた。
「一緒に過ごした人達が居て、僕は今年を一緒に迎えたいと思う人の所へ来たんだ。それが東京なんです」
 え?
 私と澤田さんはまた顔を見合わせた。笑いがこみ上げてくる。諒介は私達に気づくと「わっ」と驚いて、かーっと赤くなった。
「いや、友達が驚かせるから、その、…まいったな」
 とうとう私達はアハハと笑った。
「とにかく」
 微笑みながら目を閉じた。
「僕は大丈夫だから」
 諒介はそう言ってぱかっと目を開け、私達を見た。
「いや、本当はもっと時間が欲しくて」
 苦笑する諒介を見ながら、「時間をくれないか」と言った真顔を思い出した。
「だからしばらく、好きなようにさせてください。…はい、はい、それじゃまた」
 トンとタップして電話を切った。ああ、まいった、とまたテーブルに突っ伏す。
「熱が上がってしまった」
「そーか、和泉は俺がおらんとアカンのやな」
「はいはい、そうです」
 投げ遣りな返事に澤田さんは笑った。
 何だか意味ありげな会話だったな、と諒介を見上げる。諒介は私を見てクッと笑った。
「由加、それじゃ本当に犬だよ」
「えっ」
 私はずっと四つん這いだったのだ。澤田さんが「源二郎、散歩行くか」と頭を撫でた。私が「がるるる」と睨みつけると二人は大笑いした。
 初詣には明日、諒介が帰る前に行こう、と話して、二人は出て行った。
 私は後片付けをしながら、ぼんやりと大晦日からの事を振り返った。

 『俺はずっと嘘ついとったからな』
 『本当の僕を知らないんだろう』

 眩暈がした。
 何かひんやりとした、悲しみのようなものが突き上げて、下げようとした皿をまたテーブルの上に置いた。

 『由加は東京と一緒に、ここで縺れと戦っとるんやろ』

 でも上手くいかないよ。

 『由加、時間をくれないか』

 私も時間が欲しい。そうじゃないと考えられない。

 『今、ええ年やったと思える』
 『僕は一緒に今年を迎えたいと思う人の所へ来たんだ』

 私は部屋を飛び出した。三田線の駅へ向かって走る。車の少ない道を信号無視で突っ切った。商店街を真っ直ぐ向こうに、二人の後ろ姿が小さく見えた。
「待って!」
 叫んだが声が届かない。まだ角を曲がらないで、と祈りながらまた叫んだ。
「諒介、澤田さん、待って、待ってってば!」
 諒介が振り返って駆け寄る。澤田さんも後に続いた。
「由加、どないしたん」
 私はゼエゼエと息を切らし、喋れない。息を整えながら、「あの、」と言いかけて、何を言おうとしたのか判らないのに気がついた。
「…わ、判らない」
「はあ?」と二人はユニゾンで言った。
「判らないの」
 そう言うと、私は自分でも驚くような「ふひゅっ」という声をもらし、それをきっかけにうわあーっと泣いた。何をやっているんだろう、こんな道端で恥ずかしいじゃないか、と頭のどこかで思いながら、それでも止められなかった。
「僕は判るよ」
 判るって何を、と思うが泣くのに忙しくて訊くことができない。諒介が言った。
「泣きたかったんだ」
 そうだったのか。判らなかった。
 私にも判らないのに、どうして判るんだろう。私は気の済むまでわんわん泣いた。諒介はガードレールに腰掛けて傍らに荷物を置いて、私が泣き止むのを待っていた。澤田さんは、私がしゃくりあげるくらいになった頃に「ハナかめや」とティッシュを差し出した。私は鼻をかんでから、この気まずさをどうしよう、と思った。二人はじっと私を見ている。私は頭を下げながら言った。
「…ご静聴、ありがとうございました」
 澤田さんはしゃがみ込んで消火栓を抱きしめ、諒介は外灯にすがりついて、ゲラゲラと笑った。
「いえいえ、どういたしまして」
「ええもん見してもろたわ」
 二人はヒーヒーと笑いを止めたかと思うとそう言って、また大笑いした。



 判らない事ばっかり。
 駅まで一緒に歩いて、そこで二人と別れて戻る道々、私は後ろ手に組んで、ゆっくりゆっくり歩きながらそう思った。
 どうして私達は一緒に居たかったのだろう。
 何かを終わらせるための時間稼ぎに逃げてる澤田さんと、何かを始める力を蓄えるために逃げてる諒介と、諒介が言うところの特異体質で困っている私と。
 三人とも、時間が欲しいと思っている。
 きっとどこかで繋がっているんだ。どこかから見たら、私達は同じ姿をしているのかもしれない。ありきたりな姿で身を寄せ合っている。
 通りかかったコンビニのレジの脇に、松飾りが見えた。
 そう、あんな感じ、と南天を見る。
 だけど私達はまだまだ越えられないものがある。あんなふうに赤くない。
 それなら青だろうか、「青臭い」という言葉もある事だし、ブルーベリーならどうだろう。未熟で固い実の青と考えるには、私達は大人だ。それならブルーベリーが相応しいかもしれない。
 澤田さんの詩情が伝染してるかも、と笑いそうになりながら、いつのまにか歩調を速めていた。
 翌日、澤田さんの家の近くの神社で待ち合わせた。
 元旦に比べたらきっと空いているのだろうが、それでも賑わっている。行列に加わってお参りを済ませた。おみくじを引いて、せーので見せ合う。「勝った」と大吉の諒介が言った。じゃんけんじゃあるまいし。私と澤田さんは吉だった。
「ところでここは何の神様なの?」
「知らないで拝んどったんか」
 呆れて言う澤田さんに代わって、諒介が「学問の神様だよ」と答えた。
「何か、今更という気が…」と私。
「それは言わない約束よ」と諒介。
「拝んどって損はないやろ」と澤田さん。ばちが当たりそうだ。
「見当違いなお願いをしてしまったかも」
「何や」
「絶対言わない」
 そう言ったのに、諒介はにやにや笑いで私を見た。
「いや、だいたい判るでしょう」
「由加の乙女な発想」
「何、それ」
 二人は同時に言った。
「東京と一緒に」
 私はわーっと大声を出してしまった。その通りだったのだ。
 東京と一緒に、時間を手に入れて歩けますように。
 諒介が言っていた『それが東京なんです』というのが少し判ったのだ。いつか澤田さんも言っていたから、『俺らのおる所どこでも』と。
 それが今は東京なのだ。

"BLUEBERRY BLUE" March 1998

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