ホームワード-7

 空調は直ったようだった。よく判らないので、諒介の事を強く念じてみたりして試したが、特に変化はなかった。
 他の人の事も考えてみた。
 空調は変わらない。けれど、寂しくなった。少し痛む胸、思い出す悲しみ、それも変わらなかった。けれど以前と少し違って感じられるのは、時間が経ったからだろうか。少しずつ距離を開いて、見えなくなると居なくなるんだろうか。遠くなっていく時間。
 私は涙の出そうになった目を隠すためにデスクに突っ伏した。
「泉ちゃん、どうした?」
 呼びかけられて「はい」と顔を上げると、市川チーフは「ありゃ」と言った。
「何か?」
「うーん。涙目」
「いえ、別に何も」
「具合悪かったら早退していいよーん。ふっふっふ。しなさい、それは是非」
「え?」
 チーフはちらりと壁の時計を見た。諒介の出発の時間を知っているのだろう。
「チーフ、何か誤解してるかも」
「いいじゃん、生理痛で早退する澤田君より」
「何ィ」
 女としてそれは許せない。
 いや、本当は、澤田さんは後で絞られるつもりなんだと判っている。まったく、普通に半休でも取ればいいのに、茶目っ気なのか不器用なのか、真摯なのか。
「今さっき出てったから、走れば追いつくよ」
「すみません」と立ち上がって駆け出した。後ろから「ばいばーい」と声が聞こえたが、振り返っている暇はない。私は階段を駆け下りて外へ飛び出した。脚の長い澤田さんが走っていなければいいけど、と後ろ姿を探して走った。
 居た、軽いコートの澤田さんはポケットに両手を突っ込んで歩いていた。「澤田さーん」と呼び止めた。
「何や、由加」
「何やじゃないでしょ、誰が生理痛だって」
「和泉が居てへんとアカンねん、ウチ」
「バカ」
「どっちが。何で手ぶらやねん」
 あ、と手を見る。上着もバッグもロッカーの中だ。もちろん、財布も。
 しゃあないな、と澤田さんは私の分も切符を買った。電車に乗って、ドアの前に並んで立つ。いつか諒介とそうしたように。私は訊ねた。
「澤田さん、自分が居なくなりそうって思う事ある?」
「んー?せやな」と腕組みして少し考えた。
「誰かから見た俺と、俺が思う俺って、一致するのは難しいやろな。どっかずれとる。そのずれを見た時にそう感じるかも知れへんな。でもなあ、居なくなる事の方が難しいやろと思うんで」
「居なくなる方が?」
「うん」
「難しいから、冷酷に感じるのかな」
「せやろ。でもそれは時たま、気持ちの隙に生まれるもんや。つまり、そうそう冷酷な奴もおらんっちゅうこっちゃ」
「あ、」
 澤田さんはニコッと笑った。
「安心したか」
「うん」
 誰かからは見えない自分と、その足元から伸びる影は、きっと孤独な形なのだろう。けれどそこから歩いて居なくなる事の難しさは、思いがけない誰かの視線だ。今の澤田さんみたいに。きっと誰かが一緒に居る、振り返ってみるだけでそれに気づく。
 乗り換えて東京駅へ。新幹線のホームを端から歩いて諒介を探す。約束してはいないので、何号車に乗るのか知らない。端まで歩いてまた戻ると、向こうから歩いてくる諒介を見つけた。乗降口の前で立ち止まり、私達を待つ。駆け寄ると「何だ何だ」と頼りなく笑った。
 私が小声で空調は大丈夫だと言うと彼は「うん」と頷いた。
「和泉、ちょっと」
「うん?」
 澤田さんが諒介の腕を引っ張って私から離れた。何だろう。こそこそと何か話す途中で一度、二人はちらりとこちらを見た。
「感じ悪いぞー!」
と私が大声で言うと、二人は顔を見合わせて笑い、戻って来た。
「何」
「内緒」
「男同士の秘密や」
「いやらしいなあ」
「そう、いやらしいねん」
「うん、すごく」
 二人がにやにや笑って私を見るので困ってしまった。何とか話題を変えようと考えた。
「諒介、この前、帰って来たって感じ、って言ったよね」
「言ったよ」
「帰るって言ったら金沢とか大阪じゃないの?」
「うん?」
 前に聞いた事がある。実家は金沢だし、大学を出てから一昨年まではずっと大阪だったのだ。東京よりずっと馴染み深いだろう。諒介は「そうだな」と少し考えて、
「金沢に帰るのと、大阪に帰るのって感覚が少し違うように思う。故郷って言ったら金沢で、僕の中には動かし難い永遠のようにも思える過去があって、たまに帰ると、止まった時間をぽんぽん飛び越えて老けていくお袋がいてびっくりするような」
 ゆっくりと話した。照れくさいのかそっぽを向いているが、口の端が笑っている。
「大阪は、今暮らしているからやっぱり帰るっていう感覚がある。でもそれは以前住んでいた僕と一続きになっていて、懐かしさとは少し違う感じなんだ。春に戻った時も、懐かしいという感じはなかった。おそらく東京に居た二年間にも僕の中で大阪時間が動いていたんだろうな」
 そう言って自分で納得するように頷いて、私を見た。
「東京を懐かしく思ったのは、その、」
と、諒介は言葉を止めて視線を外した。顔を覗き込むとまた目をそらす。
「そういう僕の中の東京の時間が止まっていたんじゃないかと思う」
「どう違うの?」
「何が」
「東京」
「……」
 諒介は眼鏡を取ると手の甲で眉間をこすった。澤田さんが「そら大違いや」と笑いながら言うのを手にした眼鏡越しに見る。
「ねえ、何で大阪時間は動いて、東京時間は止まるの」
「それは、その、」
と口の中でブツブツ言いながら眼鏡をかけて「おっと時間だ、乗らなきゃ」と乗車口に飛び込んだ。
「言わんで済ます気やな」
「余計な事言うなよ」
「余計かどうかは俺が決める」
「最悪だ」
 そう言うと車内の壁に凭れてうなだれた。
「由加」
「何」
「里美さんもきっと時間を止めていた筈だよ」
「え?」
 ホームに発車を告げる音が響いた。諒介はじゃあ元気で、と言う形に口を動かして車両を歩き出した。私達は車窓の内側の諒介と並んで歩いた。
「また、俺に判らんように言ったつもりやな、甘いわ」
 ふふんと澤田さんが笑った。
「だから何なの?教えてよ」
「東京には俺らが居てるやんか」
「あ、」
「忘れてたんか?大阪行った和泉に俺らが何つったか」
 座席に着いた諒介が微笑んで手を振った。
「私、諒介の方が忘れてると思ってたかもしれない」
「由加は忘れようにも忘れられへんて。すぐ怒るすぐ殴る、色気が避けて通ったかのような幼児体型」
 右の拳を突き出したのを上手く止めて、澤田さんは諒介を振り返った。列車のドアがシューと閉まる。諒介は、またか、というように笑ってこちらを見ている。
 走り出した列車と並んで私達は歩き出し、だんだん歩調を速めていった。
「バカ野郎!」
 え、何?と諒介の口が動いた。私は駆け出しながらもう一度、バカ野郎、と口を大きく開けて叫んだ。なぜそんな言葉が出たのか自分でも判らない。けれど、嬉しくて何か言いたくてたまらなかったのだ。澤田さんがアハハと笑った。
「また帰って来やがれ!」
 列車は加速して、諒介の笑顔がぐーんと遠くなった。私達は列車が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。澤田さんがようやく私を振り向いた。
「由加も帰ったれよ」
「え?どこに?」
「場所は関係あらへん。俺らのおる所どこでも帰れる。せやろ、由加」
 私はしみじみと、目を細めて笑う澤田さんを見た。
 どうして、この人はこうも、人を嬉しがらせる詩人なんだろう!
「澤田さんて無敵よね」
「今頃気づいたんか」
 ホームを引き返しながら、どんどん離れていく列車に乗った諒介の存在感が、まるで近づくように確かになってゆくのを感じていた。
 風に肩を叩かれて、私は西へ続く線路を振り返った。



 茶封筒の小包が届いたのは、それから二週間程経ってからだった。裏側の『和泉諒介』の名前と手にした時の感触で、緩衝材が入ってるのか、と封を切る前から判った。
 ブルーレイディスクだった。デッキに入れて再生ボタンを押した。床に座り込むと足が冷たい。もう、朝夕は冷えるようになった。私はベッドから羽根布団を引きずり下ろしてくるまり、顔だけ出した。
 築地の風景から、会社の玄関。二階の営業や総務、人事などの部署が映る。その場の人達は諒介に驚き、笑った。何か言うが音は声の代わりに音楽だ。私はその曲を知っていた。映画に使われた曲で、諒介のような雰囲気の、眼鏡の女性が歌っていた。
 五階の休憩所。紙コップを手にした佐々木さんが「和泉さんだ」の形に口を動かし、カメラに気づいてVサイン。視線は横に流れた。椅子に腰掛けているのは開発の中嶋さん。銀縁眼鏡で穏やかな、知的な感じの人だ。床を見下ろす飯塚さんが、長い髪を耳にかけて自販機の下を覗き込むように膝を屈めた。
  下に入ったみたい
 字幕。古い映画に使われるのと同じフォントだ。凝ってるな、と笑った。
 中嶋さんが床に這いつくばって自販機の下に腕を伸ばし、落ちた小銭を取ろうとしている。カメラは床の方まで近づく。諒介も中嶋さんと同じ姿勢で撮ったらしい。
  何やってるんですか、和泉さん
 中嶋さんの口の動きに合わせて字幕が現れるのがおかしい。ようやく取った小銭を中嶋さんが飯塚さんに渡したところで場面は変わって、向こうから廊下をやって来た市川チーフが笑いかけ、指でピストルの形を作った。
  バン
 そう言って立ち止まらずに通り過ぎた。
 開発部。マシンに向かう古田さんが斜めに振り向いて笑い、その横に澤田さんがデスクに寄り掛かって立っている。澤田さんはこちら、と言うか、カメラに向かって、立てた人差し指をくるくると回した。すると画面はぐらぐらと揺れだした。
 どう編集したのか、激しく揺れた視界は暗くなり、黒い画面に字幕だけが、
  どっちだ?
 何の事だろう、と思うとぼうっと明るくなって入力室の入口だ。扉は開いていて、奧の休憩室に休んでいる人達が映った。杉田さん、大河内さん、森さん、松岡さん。諒介に気づいて手を振る。
 と、視線は横に流れて、私。
 画面の私は皆と違い、笑わない。変な顔で映っていてがっかりした。口は動くけれど字幕はない。すとんと視点が下がった。諒介が椅子に座ったのだ。緊張している私の視線は泳いでいる。自分が映っているせいか、そんなつまらない場面が長く感じられた。
 不意に私はまっすぐにこちらを見て、ふっと笑った。
 そして画面はすうっと変わった。再び廊下を通ってエレベーター前で矢島部長に出会う。部長は口の端で笑うと掌でカメラのレンズを覆った。それが格好良かった。
 次に景色は会社の周辺に変わった。先刻、開発部や休憩室の窓から見えていた空より明るい。いつ撮ったんだろう?
 諒介の「うん、まあ、あちこち」という答えを思い出した。会社に顔を見せる前に撮ったのに違いない。
 ビルの間、谷底のような場所に古い家並み。諒介は路地を覗き込んでまた歩き出し、錆びた古い自転車や植木に視線を投げ掛けている。薄明るい方へ向かうと、駆けてゆく子供達が擦れ違いざまに笑顔を向けてくる。カメラは振り返って子供達を見送った。歩いてゆくと川沿いの道に大きな空が広がった。
 勝鬨橋を渡ってゆく。諒介を追い越して鳩の群が飛んで行った。橋の上で立ち止まって川に向かう。暮れ方の空と光る川面、明かりが点り始めている。見えないけれど、その先には海が広がっている。
 諒介には世界がこんなふうに見えているのだな、と思った。笑顔の人々と、優しげな街と。
 音楽が止んで、車の走る音と風の音がした。画面は急に現実味を帯びた。
  橋の上で
 諒介の声。英語で何か言っている。風や彼の後ろを行き交う車の音に途切れがちで聞き取りにくかったが、声に合わせた字幕で判る。時折、考えては言葉を選ぶ「うん」の声。空の色が深くなってゆくのが見えるような間を挟んで、ぽつりぽつりと語る諒介の視界は動かない。ぼんやりと見ているうちに、それはあの諒介が、大阪へ戻る前日の午後の時点で伝えようとした言葉なのだと判って、慌てて画面を前に戻した。


  橋の上で
  僕は来た方と行く先を代わる代わる見た
  時折 危うくなる足元にひやりとして立ち止まる
  しかし揺れているのは橋ではない

  振り返ると変わらずにあるものが
  足元の確かさを教えるが
  進むほどに遠くなるように思えて
  また振り返る
  繰り返し 何度も

  そうするうちに判った事がある
  橋は行き来するものだと
  僕は何度でもこの橋を越えるだろう
  そのたびに途中で足を止めるだろうが
  僕は橋の向こうを見る

  君がそうしたように
  そこにはおそらく僕が名付けた
  橋の名が記されている


 車の音が途切れ、諒介の声ははっきりと響いた。


  "Homeward."

"HOMEWARD" March 1998

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