ホームワード-5

 昼休みに休憩室でお茶を飲んでいたら、澤田さんが入力室にやって来て「ちょっと」と手招きした。私はカップを持って開発部の前を抜け、廊下を曲がった休憩所に座った。
「昨日はすまんな」
「澤田さんは悪くないよ」
 彼はコーヒーを買って向かいの椅子に腰掛けた。
「なあ、和泉は変わったように見えたか」
「え?」
「ほんまに諒介なんか、て訊いたんやて?」
「ああ」
「何やゴニョゴニョ言うとったで?」
 自分の事となると口下手になる諒介を思い出して私達は苦笑した。私はふわふわと揺れ始めた髪を押さえながら「ゴニョゴニョね」と答え、昨夜の彼を思い返した。黙って手を引いて部屋まで送るお節介焼き、「言いなさい」と命令形の強引さ、脚を投げ出して座り頼りない顔で笑う子供っぽさ。
「全然変わってない」
 ふむ、と澤田さんは吐息混じりに頬杖をついた。
「あの時は確か、違う人っていうんじゃなくて、何て言えばいいのかな、本当にそこに居るのかどうか疑問だったの」
「はあ?」
「幽霊みたいに」
「いきなりコロスとは」
 もう、と思わず唇を尖らせてしまう。彼は笑った。
「三日前のメールみたいに」
「メール?何の」
 土曜日にふと思った事を話すと澤田さんは頭を掻いた。
「そんなん普通やんか。相手がいつ読むか判らんの前提で送っとんのやんか、残暑見舞いと同じで言葉の時差はしゃあない」
「そうなんだけど、そうじゃなくて」
「うわ、」
 上手く言えないからか感情が高ぶってしまう。涙がぽろぽろと出てきた。市川チーフがトイレにでも行こうとしたのか、ちょうど通りかかって私に気づいた。
「ちょっと澤田君、あんた何したの!」
「市川さん、助けて」
「何であんたを助けんの」
と言いながら、チーフは澤田さんの隣に座った。
「で、何なの」
「いや、女の人の気持ちは判らんわ」
「若造が」
 チーフが言うと澤田さんは「はうっ」と心臓の辺りを押さえて長椅子の上に倒れた。そんな二人を見ていたら、少し気が紛れたのか落ち着いてきた。「何かあったの」と訊かれても、首を横に振るしかない。「和泉君か」と頷きながら言ってチーフはポケットから煙草を取り出して吸い始めた。
「泉ちゃんは、気性が激しい割には胸に溜め込んじゃうんじゃない?それじゃ、激しい分だけしんどいでしょうよ。私は泉ちゃんがうちに留まったのはやっぱり何かの縁だと思ってるのよ」
「また古風な事を言いますな、市川さん」
「最初、泉ちゃんは割と頑ななところがあって、だから派遣で転々とするのが向いてるんだろうな、と思っていて」
 私は驚いて、微笑むチーフを見つめた。
「だけど仕事には一本気ってのを感じたから、馴染めば続けられる子だな、と思ったのよ。春の展示会で澤田君や和泉君と接してから地も晒すようになって、うちの雰囲気が泉ちゃんに合ってるんだと思う。だから縁があってうちに来たんだな、と。そう思わない?」
 はい、と頷いた。
「奴にまた会う機会があったら一発お見舞いするのもいいけど、」と笑いと煙を一緒に吹き出した。「そういう心を開ける縁があるんだからさ、話し合える筈だよ。和泉君もだけど、澤田君や私にもね」
 チーフは煙草を灰皿に落として立ち上がり、それじゃね、と廊下を走り去った。
「さすが市川さん、年の功」
「澤田さん、それ聞こえたらまずいよ」
「やっと笑うたわ」
 よいしょ、と澤田さんは起き上がった。そういえば彼はチーフが話している間じゅう寝転がっていたのだ。それが許される雰囲気が、ここにはある。
「そうゆうこっちゃ。由加が何や言いたがらへん、て和泉が頭抱えて、って見た訳やないけどな、多分、奴と俺が関係あるやろから言うててん」
 そうか、諒介の話をするのはいつも澤田さんとだった。
「実はな、先週の台風の夜に、ネットのコミュニティサイトに繋いでてん。そん時にたまたま和泉もそこにおってんな。即、捕獲」
「捕獲?」
「チャット。そん時に出張の事も知ったんやけど、雷の時の由加の話をしたら、えらい心配しとってん。何や大袈裟な思うたら、月曜からほんまに元気ないんで驚いた」
 澤田さんは冷めかけたコーヒーをずずっと飲んだ。
「それで、何かあったら言えって言ったんだ」
「そう。和泉が、何かあったらすぐ知らせえ、言うて。名古屋におるのにどないすんねんな、あのアホは」
 ははは、と笑って「こればらしたん、奴には内緒やで」と付け足した。私はまた、殴って悪かったな、と思った。
「由加、あいつは由加の事よう判ってるやんか。俺がメールを月曜まで見んでも、時差の間にこんな事もあるんやで。言われへん事、よう考えとけ」
「うん」
 チーフが大きな紙袋をいくつも抱えて戻って来た。私は「持ちます」と半分取った。ほなな、と手を振る澤田さんに、チーフはぱちんと片目をつぶった。



 残業前の小休止、マシンの前に両手で頬杖をついてぼんやりしていると、目の端に諒介が見えた。今日の仕事が終わってまた来たのだな、と見ると手に何か持って顔の前に構えている。ビデオカメラだ。休憩室の方に手を振っているので、そちらを見ると杉田さん達がカメラに向かって手を振り、笑いかけている。「諒介、」と呼ぶとこちらを向いた。
「何やってるの?」
「ご覧の通り」
「変なの」
 彼はカメラを向けたままこちらへ歩いて来て、隣の佐々木さんの椅子に腰掛けた。開いたパネルの向こうの液晶画面を楽しげに見ている。そこに私が映っているのかと思うと緊張してしまう。いつまで撮るのかな、と目だけできょろきょろした。
「由加の小説みたいなもの」
 不意に諒介が言った。
 え、と思って戸惑い、私は苦笑した。少し嬉しかったのだ。
 諒介はピッと録画を止めてパネルを閉じた。
「今日は早く終わったから、あちこち歩いて撮って来た」
「どの辺?」
「…うん、まあ、あちこち」
 ふにゃ、と力の抜けた頼りない笑い。困っているみたいだ。軽く頷きながら言って「そのうちね」と続けた。
 時間が来て、諒介は立ち上がると皆に「お先に」と言って出て行った。私は予定通り一時間の残業を終えて帰る。電車を乗り換え、家の近くの駅で降りると、ホームの椅子に諒介が座って待っていた。昨日のうちに決めておいたのだ。私は何となく隣に座った。
「ずっと居たの?」
「まさか。この一本前の電車で着いた」
 お見事、と二人で拍手。
「今日、空調は?」
「相変わらず」
「由加の特異体質にも困ったもんだな」
「体質?」
「超能力の方がいい?」
「…ううん、何の役にも立たないし」
「ははは」
 体質、と言われて私は少しほっとした。気味悪がったり、面白がったりしない。どんなものも同じように受け入れる。興味を抱けば近づく事を躊躇わない。近づいた以上は逃げない。それが諒介だ。
 私の部屋に向かって歩きながら、私は思った通りに言った。
「私自身が持て余しているのに、諒介がそんなふうにいるから、普通の事なのかな、って気がしてくる。だから諒介はすごいよ」
 諒介は「弱ったな」とまた困った時のへなちょこな笑みを浮かべた。
「あのね、手紙に書いていた、ひとし君」
「うん」
「僕だったら、ひろし君の手を取らなかったと思うんだ」
「どうして?」
「由加の時と状況が全く違うから。少なくとも、ひろし君の気持ちは判ったろうけど、それをほぐしてあげる事はできなかったと思う。ひとし君はその名の通り、どんな状況も等しく見据えて、どうするべきか判る人なんだと思うよ。だけど、僕には判らない時の方が多い。…と、この前電話で言おうとしたのは」
 そこまで言って諒介は子供を諭す時のような目で私を見た。
「僕を買い被らないで」
「……」
「ほらね、たったこれだけの事を言うのに一週間かかる」
 彼は自分を鼻で笑って、坂道に差し掛かると脇の公園に入った。奧の階段に向かって、両手の指でフレームを作って覗き込む。
「面白いよね、ここ。二階建ての公園。何度か通ってみた」
「ふうん?」
「二階って言っていいのか知らないけど、春は上が良かった、花壇と噴水」
「諒介はそっちに進もうと思わなかったの?」
「そっちって」
「映像作り」
 フレームを壊して振り返った彼は「そうか」と苦笑した。
 階段を昇る。噴水を中心に、円形に配されたタイルの道と花壇。外周は階段三段の差で上にあり、蔦を絡ませた棚とその下にベンチ、砂場。砂場に並んでブランコ。四隅の外灯がぼんやりと照らす円い空間だ。今は少ない花がやっと彩りを添えているものの、枯れかけた蔦や台風以来落ちている木の葉が寂しげな感じがする。
 公園の出口の方へ、タイルの道を噴水に向かって歩くと諒介がついてこないのに気づいて振り返った。彼は三段上の外周の縁に立ち、指のフレーム越しにこちらを見ていた。
 何を見ているんだろう?
「由加は大阪へ行った事がある?」
「え?」急に何を言い出すのだろう。「ないよ、一度も」
「……」
「どうして?」
「いや、いい」
 澤田さんに「和泉は変わったように見えたか」と訊かれて、全然変わっていないと思った。だけど今の諒介は知らない人みたいだ。思いがけない言葉の連続、指の四角越しの眼差し。
 怖い。
 風が木の葉を飛ばし、噴水から水飛沫が上がった。風向きが判らない。周りじゅうから吹いているように思える。風が迷っている───私は思わずしゃがみ込んだ。膝に顔を埋めて隠れようとする。だがどこからでも捕まえられ、風に晒される恐怖。
「由加、」
と駆け寄った諒介の手が私の肩を掴んだ途端、私は顔を上げてその手を払い除けた。
「触らないで」
 諒介は慌てて手を引っ込めた。
 風が止んだ。かさ、かさ、とあちこちで木の葉の落ちる音がした。静かだ、と感じた。
「今、何が、」
 諒介はそう呟いて横を向き、チッ、と舌打ちした。額を拳でごしごしとこすって向こうを睨んだ。
「本当はいつから?」
「何が」
「こんな事」
 怒った顔の諒介は私の方を見ない。
「そうだ、雷の前だったじゃないか、入力室の風は。雷は既に変調を来していた由加に追い打ちをかけただけだ。その前にこんな事はなかったの?」
 愕然とした。彼は続けた。
「澤田が突風の後でスカートがどうのと言って殴られた。その風はどうなの」
「それは」私は立ち上がった。諒介も立ち上がり、今度は私を真っ直ぐ見た。
「台風も私のせいだって言うの?」
「そうじゃない」
「でもそう聞こえる、諒介は面白いから私を構うの?」
「違う」
 きっぱりと言われて返す言葉もなかった。
「今はそんな話をしていないだろう。問題をすり替えるな。なぜ風なのか、由加の中にはちゃんとその理由がある筈だ、半年前と同じに。僕に言えないなら自分で考えろ」
 あの諒介が早口で言う、それだけで充分怖かった。ふわ、と風が諒介の髪を揺らした。これも私のせいなのか、ただの自然現象なのか、区別がつかない。ふわふわふわ、私の髪が目の前をざらざらした絵に変えてしまう。彼は両手を腰に当ててふうと息を吐いて、目を伏せた。「その、」とまた言い淀む時の前置きだ。
「もう一つ、思ったのは、里美さんが───いや、」右手の親指で鼻の頭をこすりつつ、「それは置いといて───由加が、誰かに振り返られる何かを残しているとして、それが何なのか怖いと言うのはなぜなのかを、僕なりに考えてはいるんだけど、由加はどう思う」
「え?」
 諒介はゆっくりと歩き出した。私は横に並んだ。
「ひょっとしたら、始まりは二週間前じゃないかと思うんだ」
「どうして」
「不精者の由加があんな長い手紙を書くなんて」
 え、と私が言うと彼はクッと笑った。
「いや、その、ね。うん」
「…ひょっとして、電話したのって」
「ああ、肉まんってまだ売ってないのかな」
 ひょいと向こうのコンビニを見て言う。自分こそ話をすり替えている。
 なんだ。なあんだ。
「諒介は変わらないね」
「腹減ったな」
「何やゴニョゴニョゆーとったそうだけど」
「…澤田め」
 澤田さんの言う通りだ。諒介は私より私の事を判っているのかもしれない。この人の頭の中はどうなっているのか。他人の事ばかりで、さぞ忙しいだろう。私はもう一度言った。
「諒介は変わらないよ。あの時は本当に諒介がそこに居るのか判らなかったの。時間をずらして、春の諒介が『今』にポンと置かれてしまったみたいに、実物じゃないような気がして。本当は居ないんじゃないかと思った」
 私は、澤田さんと話したメールの時差の事を諒介にも話した。彼は「そんな事で」と、がくっと首を横に傾け、公園の出口のガードレールに腰掛ける。いつか見た光景、それは春のままのようでもあり、やはり少しずれた版画のようでもあった。
「なるほど」
「何が」
「風が吹く理由」
 諒介は愉快そうに笑いかけ、きゅっと左目を細めて棒読みの口調で言った。
「僕が居ないとだめなのか」
「自惚れんな」
 ぱっ、と私の拳を左手で止めて笑う。余所見をしていてもそれができるのは彼だけだ。 「冗談はさておき、キーワードは『居ない』だ。心当たりは?」
「どうして」私は混乱して、またしゃがみ込んだ。「『和泉』じゃなくて『居ない』なの?」
「いずみ?ああ、由加は『泉』さんだからな。一日呼ばれてばかりで、それで空調がおかしいのか。多分、由加にとって、僕は居ない人の象徴だから。もっとも、それは、」
 彼は胸ポケットから煙草を一本取って口の端にくわえた。
「僕だけではない」