ホームワード-4

「出張で月曜から名古屋に行って、こっちには今日来たんだ」
 そう言って諒介は箸を手にした。澤田さんはそれを知っていて、私を驚かせるつもりで黙っていたらしい。効果はてきめんだった、という訳だ。
 私の前に並んで座る二人は目を見合わせては黙り込む私を見る。私は黙々とごはんを食べる。ごはんだけ。
「由加?」
「別に、」やっと声を出す気力が出てきた。
「怒ってないよ。何をどう話したらいいか判らないの」
「うーん」
 澤田さんは腕組みして、諒介は肘を突いた左手で額を押さえて考え込んでしまった。
「ごちそうさま」
 私が箸を置くと、二人は何も言わず急いでテーブルに並んだ料理を食べ始め、それがきれいに片づくと頷き合って立ち上がった。二人に続いて店を出たところで、言うべき事は言わなければ、と思った。
「かえって気を遣わせちゃってごめん」
「うん」
 有楽町まで誰も何も言わなかった。澤田さんが「またな」とJRの駅へ向かうのを見送って、諒介が「行こう」と言った。
「有楽町線に乗るんでしょう。僕もだから」
「そう」
「何があったの」
 ゆっくりと歩き出しながら、彼は振り返って言った。
「気づくのが遅かった。由加が殴る時は決まってる」
「え?」
「僕に何か話があるでしょう」
 地下へ降りる階段の手摺に手を掛けて彼は立ち止まった。私はそれを追い越しながら答えた。
「…うん。ある」
「そうだったのか。着信履歴を見たのが深夜だったんで折り返さなかったけど、悪かった。それで?」
 歩調を速めて隣に並ぶ。追いつかれたくないので残り三段を飛び降りた。諒介の歩幅は余裕で私に追いつくが、彼が切符を買う隙に私は改札を通った。
「待て」
 先刻と逆だ。どうも勝手が違う。何か間違っているんじゃないかと思う。言われた通り待った。改札から駆けて来た諒介に言った。
「本当に諒介なの?」
「え?」
 階段の下のホームから風が吹き上げた。
 脇を行く誰かが思わず立ち止まる。手にしていた茶封筒が舞い上がった。慌てて追いかけてゆく。その先に長い髪を手で押さえて立ちすくむ女性が居る。諒介の上着やネクタイが翻っていた。眼鏡の向こうで片目を細めて、それでも周囲を見ようとしている。私の髪が上下に揺れて、ノイズの走る古いビデオの画面のようだった。
 少し遅れて、電車がホームに滑り込む音。ふわりと風が止み、電車が止まった。
 ───ありがちな光景だ。
 諒介は前髪を掻き上げながら辺りをぐるりと見回した。
「何だったんだ、今の」
「おかしい?」
「いや、判らない」
「私もよ」
「でもこんな、」
と言いかけて彼はあの大きな手で、ぼさぼさになった私の髪を直した。
「まるで台風みたいに」
 台風。
 視界をピンクの紙片が舞う幻覚に、私は目を見開いた。
 由加、と呼びかけられたように思った。花吹雪のようなピンクのノイズの向こうに、私の顔を覗き込む諒介が透けて見える。彼は、チッ、と舌打ちして私の二の腕を掴み、ひっぱって歩き出した。



 有楽町線が池袋に着いたところで起こされた。吊革につかまって正面に立っていた諒介はまた私の手を引いて立ち上がらせ、電車を降りた。少しうとうとと眠ったせいか、目の前がはっきりしない。口を利く気力もないままでいると、彼はもう次の行動を決めていた。
 私の部屋に着くと、諒介は勝手知ったるという感じで棚の灰皿を手にして窓を細く開けた。私はバッグとジャケットを床に放り出してその場に座り込んだ。彼も窓辺に寄り掛かって脚を投げ出す。
「言いなさい」
とだけ言って煙草に火を点けた。何から話せばいいんだろう。
「今日、空調がおかしかったでしょう。あれ、私」
「はあ?」
「だと思う」
「いきなりだな。ああ、でもそれで繋がるか」
 何がだろう。まだ一言しか話していないのに。
 私の考えを察して彼は続けた。
「金曜日に澤田と話す機会があって、雷の時の事を聞いた時、ちょっとまずいと思った」
「まずいって?」
「由加の様子が普通じゃないって言うか、僕から見たら半年前と同じか、と。でもいきなり殴ってきて」と軽く笑った。「元気そうだと思ったのが失敗だったな、うん」
 諒介はこちらを見ずに、殆ど独り言のように話している。
「僕が電話したのが木曜か、すると何かあったのは金曜だ」
「何かって」
「僕が訊いてる」
 窓の外、木々が風に揺れてザザッと鳴った。びくりとする私に諒介も驚いた。
「金曜日を思い出して。できるだけ細かく」



 朝起きて、シャワーを浴びて身支度して出勤。当番で掃除。仕事。午前の休憩で、皆が前夜のドラマの話をしているのを聞く。仕事。澤田さんとそば屋。山菜そばを食べる。諒介の話をする。
「僕の?」
「電話で、何の話をしたのかよくわかんなかった、っていう話」
「ああ、」彼は例の頼りない笑いを浮かべた。「続けて」
 会計で澤田さんが「女の子におごらせる訳にはいかん」と言ったので「女をなめるな」と殴った。
「なるほど」
 歩道橋を登っている時に強い風が吹いて転びそうになる。その時に澤田さんが「何でスカートはかないのか」と言ったので殴った。
「うーむ」
 仕事。午後の休憩でお茶をいれる。おやつはチーフの妹さんのハワイ土産のチョコレート。また仕事。短い休憩を挟んで仕事。五時過ぎに澤田さんが入力室に来る。澤田さんと諒介のメールをプリントした紙を貰う。由加はすぐ殴るから自己批判するように。
「こっちは切実だから」と諒介は笑った。
 残業なしの筈が、窓から風が吹き込んで原稿が飛び散る。皆で拾って三十分の残業。
「ストップ。風が吹き込む直前、何してた」
「そのメールを読んでた」
「うん。次」
 チーフが「責めないから」と言うが、窓を開けたのは誰か判らないまま。
「うん」
 会社を出る。雨が降ってくる。澤田さんが傘の代わりに上着を貸してくれる。走る。雷。怖がったら、澤田さんが「和泉に見せたい」と言う。上着が飛んで雨に濡れる。澤田さんに引っ張られて新富町の駅に飛び込んだらしい。
「らしい?」
「あまりよく覚えてない」
「そうか」と煙草の火を消した。
 澤田さんが送ろうかと言うのを断わる。澤田さん、有楽町で下車。まっすぐ帰宅。食欲がなく夕食抜き。翌日に返すDVDを観ながら寝る。



「以上」
「お疲れさまでした」
 何となく二人で頭を下げた。
「で、空調がおかしいのがどうして由加のせいなの」
「土曜日に、私の他に誰も居なかったんだけど、勝手に窓が開いたの」
「それは」と口をへの字に曲げながら目で笑って頷き、彼はまた煙草をくわえた。
「怖かったでしょう」
 そう言われて、私はたまらずダンゴムシのように丸くなって床に転がった。本当に、ずっと怖かったのだ。
「入力室の小窓は確か、開発の端のと同じだったな」と言ってしばらく考え込んでいたが、「空調がおかしいのはいつから?」
「月曜」
「おかしくなるのはどんな時」
「…絶対言わない」
「まいったな」
 判っているのは、諒介を思い出すと、という事だ。でも言わない。
「じゃあ、その辺は訊かない事にするけど、早いとこ何とかしよう。リミットは金曜」
 窓からひゅうと吹き込んだ風が、テレビの上に置いてあった紙を部屋中にばらまいた。灰皿の灰が舞う。諒介は煙草をくわえたまま向き直って窓を大きく開け、外を見回した。私は金曜の入力室を思い出して後ずさり、背中にぶつかったベッドにつかまって掛け布団に顔を伏せた。
「由加」
 カラカラと窓を閉める音がして風が止んだ。ふう、という溜息にも驚いてしまう。顔を上げられずにじっとしていた。しばらくの静けさの後で、かさ、と紙の音がした。
 あ、と思って振り返った。諒介が壁に寄り掛かって座り、腕だけ伸ばして紙を拾っては見ていた。私は慌てて床に散った紙を掻き集めながら言った。
「見ちゃだめ」
「うん」
と答えながらまだ見ているのを取り上げた。
「見た?」
「いいや?」
 じっと睨むと、彼は「ちょっとしか」と付け足した。その正直さと恥ずかしさで脱力してしまう。殴られるかと避けるように身体を傾けていた諒介が微笑んだ。
「バンドエイド・ブリッジか」
 私は俯いて紙の束をくるりと丸めた。これまでにも学校の図書館報などに短い文章を書いた事はあったが、小説らしきもの、長いものを書くのは初めてだった。この春の出来事はいつも私の胸の隅にあって、時々ふわっと膨らんで全身を支配する。そんな時に少しずつパソコンに向かっていたのだ。私達は黙り込んだ。春の夕暮れのあの一瞬を思い出して。