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 朝のテレビの星占いではラッキーデイだった昨日、カードケースを落とした。私は自動改札から少し離れて、バッグや買い物袋を探ったが見つからない。きっと先刻スーツを買った時だ、カードを使ったから、とデパートに引き返した。けれど会計の時に『蛍の光』を聴いていた。もうエスカレーターは停まっており、私は切符を買って帰るしかなかった。
 昨日の店員は私を覚えていた。「カードケース、落ちていませんでしたか」と訊ねると「二階の総合案内所に預けてありますよ」との事。私は礼を言って店を後にした。二階に降りてエスカレーター脇のフロア案内図で確認する。総合案内所はフロアを突っ切った、反対側の端にあった。私は腕時計を見て早足で歩いた。
 今朝の占いでは友人との外出が吉。それで一日の行動を決めてはいないけれど、約束もあってツイている気がする。里美との待ち合わせの時間まであとわずかだ。
 総合案内所には先客が居た。緑のジャンパー、黒い半ズボンの男の子。アナウンスされていた迷子はこの子か、とちらりと見た。男の子はじっと床を見て、係員が問いかけても何も答えない。私はカウンターにカードケースの件を訊ねた。係員は「三階ですね」とノートを広げた。赤い革のカードケースと名前を告げて探してもらう。係員の一人がカウンターの下にある拾得物入れを見ていると、誰か駆けて来て私の横に立った。
「すみません、財布落としたんですけど」
「どんな財布ですか」
「グリーンの折り財布で、学生証も入ってます」
 彼はそう答えて名乗った。
「お待ちください」
 そして彼は迷子とその頑なさに手を焼いている係員に気づいて、突然そこにしゃがみ込んだ。私は彼の帽子の頭を見下ろして、その前に立つ迷子の男の子を見た。
 と、彼は男の子の手を取った。
 何だろう、と見ていると、彼は男の子の握りしめた拳を両手で包み込むようにし、ゆっくり撫でた。しばらくそうしていると、男の子は静かに泣き始めた。
「大丈夫、お母さんすぐ来るから」
 男の子が頷いた。
「僕はひとしっていうんだけど、君、お名前は?」
「ひろし」
「似てるね、名前」
 彼は係員に「ひろし君です」と言った。彼の唐突な行動に手を止めていた係員が再び放送を依頼する。それから私のカードケースと彼の財布をカウンターに置いた。
「泉由加様、ですね。中を確認したらこちらに署名をお願いします」
 お店に置き忘れたのが良かったのか、カードも無事だった。私は署名しながらまた彼の後頭部を横目で見た。彼は名前を呼ばれたが、はいと返事をしたまま、ひろし君の手を放さずにいる。私は手続きを済ませてカードケースをバッグに入れ、係員に礼を言ってひろし君とひとし君の頭をちらりと見た。何だか気にかかるが、もう時間がない。私は急いでまたフロアを突っ切った。



「擦れ違いざまに印象を残す人って、確かにいるね」
 映画の後で入った喫茶店で先程の出来事を話して聞かせると、里美はそう答えてレアチーズケーキを口に入れた。
「顔も見てないんだけど、手が印象的っていうか」
「うん」
「誰かに似てるんだよなあ」
 私は砂糖を入れたコーヒーをかき混ぜた。
「りょーすけさんじゃない?」
 里美にそう言われてみて、なるほど、と思った。
 諒介は勤め先で知り合った友人だ。彼は和泉と書くが、奇しくも同じ『いずみ』という姓で、そのため年上の彼を諒介と呼んでいる。好奇心が服を着て歩いているような男で、その細長い脚でそのまま大阪まで行ってしまったのが半年前の春の事だ。
 確かに、諒介の手は印象的だった。
 嘔吐を堪える私の目の前に「吐きなさい」と差し出されたのだから。
 里美にはその時の事を「困ってたら手を差し伸べられた」と話してあったので、それで思い出したのだろう。彼女もアイスティーをストローでかき混ぜて訊ねた。
「りょーすけさん、元気?」
「だと思う。便りのないのは良い便り」
「全然ないの?」
「残暑見舞いは来たけど」
「そんな感じするね。あちこちで人助けしてそうな人」
 私達は笑った。
 本当に、諒介は今頃何をしているのだろう…仕事だな、きっと。
 彼が三月まで居た会社は大阪に本社を構えている。彼は一旦本社へ異動し、そこから系列の上位会社に引き抜かれたのだ。私は人材派遣会社から遣わされて、築地にある東京支社で彼と出会った。彼が居なくなった後もその会社の要請で派遣期間は伸び続け、先月とうとう「うちに来ちゃいなよ」の一言で私の派遣放浪記は終わったのだった。つまり諒介の元居た会社は現在、私の勤める会社でもある。
 私は情報処理の入力オペレーターをしている。入力室の市川チーフは美人でやり手で、口は悪い。そのチーフの推薦で入社できた。形ばかりの試験も受けたが、結果は惨憺たるものだった筈だ。
「擦れ違いって、一瞬に限らず」と里美は話を戻した。「人との出逢いって擦れ違いじゃない?やっぱり」
「うん」
「通り過ぎてから、時々振り返ってしまうような…」
 カラカラ、と里美のグラスの氷が涼しい音を立てた。私達は何となく黙り込む。彼女はきっと別れた恋人を思い出しているのだろう。彼女とは以前、やはり派遣先の会社で知り合って、その恋人の事も私は知っていた。だから、彼女の気持ちが少し判る。
「由加もそうだよ」
「え?」
 思わず、フォークをケーキに刺したままで手が止まった。
「由加が居なくなった後、時々思い出してた、私」
 私?
 先刻擦れ違ったひとし君のような人なら判る。泣く事もできず黙り込む迷子の手を取って心を叩く人。それは諒介に似ている。私ではない。けれど里美は「由加はそういう人」と言って微笑んだ。
 里美の買い物に付き合って、それからいつものイタリアンの店で乾杯して、帰宅すると十時をまわっていた。壁に掛けた新しいスーツにブラウスを何着か合わせてみたり、土曜の夜の楽しみである映画のDVDを並べて、どれから観ようか神様に訊いてみる。
 ふと思い出して、鏡台に置いたままひと月が経っている諒介からの葉書を手に取った。

  残暑お見舞い申し上げます

  お元気ですか。
  こちらの仕事にもだいぶ慣れましたが、まだ見習いの身です。
  この前、由加が教えてくれた映画観ました。面白かった。
  暑い日が続きますが夏バテしないよう。

                     和泉諒介

 仕事の事と必要な事しか書かないのが彼らしい。
 私の方からも手紙を出したのは一度だけだ。澤田さんは時々メールで連絡を取っているそうで、会社で顔を合わせた時など、たまに「和泉は元気にしてるで」とか「忙しいみたいやで」とか教えてくれる。澤田さんは、諒介の親友だ。
 残暑見舞いの返事を出していなかった。そもそも私は手紙を書くのが苦手だ。先月社員になった事も澤田さんから聞いているだろうし、とつい放っておいてしまった。
 私は棚の抽斗から、春に一度使ったきりの便箋を取り出してペンを取った。床に俯せて、本を下敷きにして書く。残暑見舞いの葉書の返信なら、メールではなく手紙だろう。
 残暑見舞いの礼と、社員になった事、今日観た映画の事を書いた。私と諒介の共通点といえば映画好きという事くらいしかない。
 それから、ひとし君の事も書いた。

───顔は見えませんでしたが、財布に学生証が入っていると言っていたので、若いと思います。私も学生を若いと思うような歳になってしまいました。それはともかく、豆諒介みたいな人だと思いました。───

 ペンを放り出してごろりと仰向けになった。天井に向かって小声で「おーい」と声を掛ける。返事はない。
 振り返ると、古くなっていく時間の中で鮮やかに生きる人達。



 大阪行きの手紙をポストに落として、目の前のコンビニでお昼に食べるおにぎりを買った。新しいスーツはまだ少し早かったようで、私はジャケットとエコバッグを手に持って会社へ向かう。風に乗って運ばれてくる水の匂いは川と海の匂いを混ぜて少し冷たく心地好い。明るい朝の日差しもやわらかに感じられる季節になった。
 入力室の手前の廊下で、加湿器の水を換える佐々木さんと出会った。「泉ちゃん、おニューだね」とスーツの事を言われた。
 私は『泉ちゃん』と呼ばれている。諒介の『和泉さん』と区別するためだ。ここで私を『由加』と呼ぶのは澤田さんだけになってしまった。諒介は居なくなって半年経っても、存在感だけ残している。里美の言う、時々振り返ってしまうような何かの印象を皆にも残しているのだろう。
 一日の長さの伸び縮みは法則性があって、仕事の空いた日は長く感じられる。ただし、仕事が多く入った時は残業時間のみ長く感じられる。黙々とキーを叩くという作業は時間の中にぽっかり浮くような錯覚を起こしてしまう。時間のきまぐれに引っ張られてあっと言う間に過ぎた先月と比べ、今月は少し足が地について時がゆるりと回っているようだ。
 市川チーフが入力室の明かりを消して扉を閉めた。チーフが皆と一緒に帰れるくらいに余裕のある一日だった。皆でラーメンでも食べようか、とチーフが言う。隣の開発部の前を「お疲れさまでした」と言いながら通ると、開発の人達もマシンの電源を落として帰るところだった。「由加」と澤田さんが私を呼び止めた。
「これから暇なら飲みに行かへんか」
「うーん。この前これ買って、そろそろ自重しないとピンチかな」
と私は羽織ったジャケットの衿をつまんだ。
「お受験の園児みたいやな」
 澤田さんは私の軽いパンチを右手で止めて笑った。
「ええわ、おごったる」
「どうしようかな」と皆を見ると「澤田君、ご馳走様」と横に居たチーフが言った。
「すんません、俺の財布は定員二名ですねん」
「いやらしい奴」
「せやから邪魔せんといてください」
 二人はアハハと笑って、それじゃお疲れさま、と挨拶を交わした。澤田さんは「すぐ出るから待っとって」とロッカーの方へと走って行った。
 何度か二人で飲みに行って気が付いた。澤田さんが誘う時は、諒介と話していたような事を話したい時だ。私が諒介のように答えられる訳はないが、澤田さんは私に話す事で考えを整理したりできるのだろう。
 銀座まで歩いて串焼きの店に入った。澤田さんは日本酒党だ。
「先月、諒介から葉書が来たよ」
「俺にも。四行やったけどな」
「私のも」
 カウンター席で焼き鳥をつまみながら、互いに横目で見遣った。澤田さんが次に何て言おうか考えているのが判って、少し笑える。
「カッコ残暑お見舞い申し上げます含むカッコ閉じ」
「勝った、含まない」
「奴のこっちゃから、どうせ内容も一緒やろ。後の一行、何やて」
「映画面白かったって」
「おまえら、色気ないな」
 澤田さんは以前、私と諒介の仲を誤解していた事がある。「だから、そんなんじゃないんだってば」と言いながら串を皿に置いた。澤田さんは、そーか、と言ってお酒をちびりと飲んだ。
「あんなつまらん顔でも見えんと寂しいやろ」
「自分がそうなんでしょ、澤田さん」
「まあな」と答えて頬杖を突く。唇を尖らせ、切れ長の目でこちらをちらりと見てから「奴にも由加にもかなわん」と苦笑した。
 そこで仕事の話から、大阪の本社の話を絡めていった。私にはよく判らなかったが、頷きながら聞いていた。澤田さんは時々「そうやな」と一人で納得してはまた話を進めていく。曰く、仕事はおもろいが東京の水が合わへんのや、という、自分でもどうしようもない感傷のようなものがあるらしかった。これまで身近にいた諒介とは大阪の本社で知り合った事もあり、大阪の話ができる諒介が居なくなったのが寂しいのだろう。
「澤田さんは、振り返ってみる人って、やっぱり大阪に居るの?」
「何やそれ、振り返るて」
 私は土曜日の出来事と、里美の話を聞かせた。澤田さんはまたお酒を注文して「うーん」と腕組みをした。
「まあな、長いこと向こうにおったからな。振り返るなら西やろ」
「もしかして、東京の水が合わないのはそのせい?」
 そう訊ねると、澤田さんは「うわ、」と呟いて両手で自分の両目を覆い、ごしごしとこすった。図星だったな、まずかったかな、と思った。彼は空のグラスに口をつけてすぐに置き、頭を掻いて、うなだれたかと思うと上目遣いに私を見た。
「ほんま、かなわんわ。嫌なやっちゃ。今はそれ以上訊かんといてな」
 つまり肯定だ。
 ごめん、と謝ると「知らんのやからしゃあない」と彼はカウンターの向こうから渡されたお酒をグラスに注いだ。どんな話をしていても終始笑顔の人だから、あまり深刻にならないが、それでも傷に触れてしまった事には変わりない。
 何度も繰り返し振り返る存在が傷とは限らないが、少なくとも今の澤田さんにとってはそうなのだろうと思った。振り返って胸の痛まない人なんていないだろう。私も自分のグラスにお酒を注いで、辛口の味が揺らし始めた風景に戸惑い、目を伏せた。