天使とレプリカ/6

 眼下に広がる街の向こうに、朝が近づくかすかな光に空が色を変え始めていた。柵もない屋上は風が強く、僕は落ちそうな恐怖に駆られてシュウヘイのすぐ後ろまで行った。高い所は苦手なのだ。キリエもそうなのか、僕の腕をぎゅっと掴んでいる。シオの白いワンピースの裾が翻った。それが吹き飛ばされそうに見えて彼女の肩をつかまえた。シュウヘイはノハラに下がるように言って進んで行く。彼が対峙していたのは、思いがけず若い男だった。
「昨日はどうも、シュウヘイ」
「僕は会いたくなかったけど」
 あれは誰、とノハラに訊ねた。
「…桜木リュウタ。シュウヘイのお兄さん」
「何でそんな人がここに」
「HAHの社員だから。桜木ユウサクは前社長なんだ…」
 シュウヘイは兄の目の前に立ち止まった。リュウタの傍らに立つ男を見て「57か」と言った。僕らの背後にも数人の男、あるいは数体のアンドロイドが立つ。ノハラは「57は短縮コードの指定とその保護機能がある。止められない」と小声で言った。
「やる事が大袈裟じゃないのか」
「彼女は口は堅いみたいだったけど」とちらりとノハラを見遣って「小宮山も躍起になって手に入れようとしていたからね。放っておけばこっちは身の破滅だ」
「後ろ暗いからだろう」シュウヘイはフンと笑った。
「おまえは呑気に天使と遊んでいればいい」
 天使と聞いて彼の背中がピクリとした。
「私のする事に口出ししなければここが天国になる。それともすぐに出かけるか?」
「親父が死んでから…」
 彼は一歩前に出て兄に顔を近づけた。
「HAHは変わってしまった」
「時代と共に」と兄は言った。
「時代は後からついてくる」弟も淡々と返した。
「何の話だ」
 僕はたまりかねて言った。二人が僕を注視する。
「…何だ、本当に知らないのか、彼女の友達は」
「自分から教えてやるつもりか」
「冥土の土産に?」
「よせ」
 シュウヘイは彼の胸ぐらを掴んだ。57がシュウヘイをリュウタから引き剥がして突き飛ばした。
「私は昔からおまえが嫌いだった。…その間延びした面が気に喰わない。おまえは親父に可愛がられていたなあ、だがおまえが好きな事だけやっていられたのは私が居たからだよ」
「くだらない」
「おまえにはそうかもしれないが、私はずっと憎んでいたよ、親父もおまえも」
 リュウタはニヤニヤと笑って言った。立ち上がったシュウヘイがまた兄に掴み掛かろうとするのを止めたのはノハラだった。
「やめてよシュウヘイ」
「ノハラ」
 ノハラに腕を掴まれてシュウヘイは振り上げた手を下ろした。
「私はリュウタの気持ちが判るよ。私もそうだった。母は私の教育に夢中で、私の気持ちなんてこれっぽっちも考えてくれなかった…。そのくせ父が居なくなった時…あの人は…」
 そう言って彼女は左手で自分の首を押さえてぎゅっと目をつぶった。
「…あの時に私は死んだんだ…」
「そう、私も死にながら生きているようなものだったよ、シュウヘイ」
 リュウタはクスクスと笑っていた。
「おまえの言うような人間の価値って何なんだ?なあ、逮捕されたり狙われて逃げ回っているのを知っている筈なのに会社を優先されてしまったり…」
 視線をノハラからシオに移して彼は続けた。
「本来、人間の『手と心』のあるべき場所に、代わりをする者を送り込んだり…」
 リュウタの視線は僕らの上をぐるりと回って再びシュウヘイに向けられた。
「あんまり笑わせるなよ」
 誰も何も答えられなかった。
「私のやっている事の方が健全だと思わないか。神が我々を創造したなら、憎しみがあるのも神の意志ではないのか。人が殺し合うのも神は放ったらかしだ…これはシュウヘイ、いつかおまえが私に言った事だよ。…小宮山、君なら判るだろう」
 ノハラは身動きもせず、ただリュウタを見つめていた。
「居ないんだよ、神も、天使も。だからおまえは天使を作っているんだろう?」
「…その通りだ」
「シュウヘイ」ノハラは彼を見上げた。
「リュウタの言うような天使は居ない」
「おまえの天使は可愛いな。私の話が判ると言うんだから。…泣いておまえを呼んでいたのに」
 それを聞いてシュウヘイは弾かれたようにリュウタに飛びかかった。ドサッと倒れ込む二人の上に57がのしかかった。僕とキリエが57を引き剥がそうとして、57が振り回した腕に張り飛ばされた。シオが57の足を取って転がした。
「シオ、危ない!」
 叫んだ僕を後ろから羽交い締めにした別の57の脇腹をキリエが蹴飛ばした。キリエに襲いかかる一体にシオが体当たりする。僕は倒れたそいつの停止スイッチを靴底で押した。あと一人と振り向くと、それは屋上を転がっていくシュウヘイ達を追っていた。ノハラがタックルで倒して停止させ、二人に駆け寄って叫んだ。
「やめて、やめて!」
「───殺してやる…っ」
 声を絞り出したのはシュウヘイだった。
 ノハラが「やめてよ!」と叫んでシュウヘイの背中にしがみつき二人を引き離した。
「シュウヘイの口からこんな事を言わせて…」
 ノハラは震える声でリュウタに向かって言った。
「嫌なんだ、こんな事は…何もかも…」と弱々しく首を振る。「彼らは…」とこちらを振り向かずに僕らに手を伸ばした。
「…何も知らない。話していない。知っているのは私だけだ…だから…」
 ゆらりと立ち上がった。
「…桜木さん…人間の価値なんて…誰も測れない…誰も知らないんですよ…」
 ノハラは眼鏡を外すと足元に放り出し、不意に駆け出した。
 シオが真っ直ぐノハラに向かって走り出す。慌てて立ち上がって走るシュウヘイを追い越して、屋上の端でノハラをつかまえた。
 二人は一緒に落ちた。
「ノハラ───!」
「シュウヘイ!」
 シオより一瞬遅れて駆け出した僕らが今にも落ちそうな彼をつかまえる。白い服の二人が夜明けの街の暗闇に吸い込まれてゆくのがはっきりと見えていた。
 シュウヘイが辺りの空気を震わせて叫んだ。
「飛べ───ッ!」
 その時、僕はシオが天使になるのを見た。
 シオの背中から透き通る大きな翼が広げられ、一瞬ふわりと漂うかのように見えた。
 しかし翼ははばたきもせず、二人は落ち続けていた。シュウヘイが僕らの腕を振り解いて駆け出した。エレベーターの方へ続く通路へのドアに飛び込むバタンという音を背中で聞きながら、僕とキリエは落ちてゆく二人を見ていた。かすかにドサッと二人が地面にぶつかった音が聞こえたような気がした。
「ああ…」
 キリエが掠れた声をもらした。僕は彼女の肩を抱き寄せた。僕らの後ろでリュウタがクククと笑っている。振り向くと彼は僕らに背を向けて寝転がったままだった。
「…狂ってるよ、あいつは…」
 シュウヘイの事らしかった。
「狂ってるのはあんただよ」
「そうだ。人類は狂っているんだ。知らなかったのか?」
 そう言ってリュウタはまたクククと笑った。
 再び地上を見下ろすと、こちらに向かって来る救急車の赤いランプが見え、サイレンの音が小さく届いた。僕は声もなく泣いているキリエを抱きかかえ、「行こう」と屋上から連れ出した。




 HAH社の白いビルに、ユーザーとして足を踏み入れるのはこれで五回目になる。僕の顔を覚えた受付の可愛い女の子が慌てて立ち上がり、いらっしゃいませと深く頭を下げた。僕はどうも居心地が悪く、いえどうも、などと言いながらお辞儀を返した。HAHの僕に対する扱いは180度変わってしまった。僕は前社長の所有していたアンドロイド『シオ』のマスターであり、そのシオはHAHのイメージアップに貢献したのだ。
 地上四十階のホテルの屋上から飛び降りたノハラが一命を取り留めたという奇跡的なニュースは、彼女を救ったのがHAHの介護型アンドロイドであることが判明すると一大センセーションを巻き起こした。
 シオの翼は飛ぶ事はできなかったが、しなやかな素材を使用していたのが幸いしてパラシュートの役目を果たしたのだ。また着地の際にはシオが翼を閉じて下敷きになり、ノハラは打撲と骨折で済んだのである。
 『機械仕掛けの天使』という文字が連日新聞や雑誌を賑わせ、HAHには『翼オプション』に関する問い合わせが殺到した。対応に窮したHAHは記者会見を開き「まだテストの初期段階であり、商品化の予定は当分ない」と発表した。テレビの画面には憮然としたシュウヘイの顔もあった。キリエの言っていたシオのテストとはこの事らしかった。ともあれ、HAHアンドロイドのAIの判断力は高く評価される事になった。
 同時に世間を騒がせたのは、リュウタがライバル社コミヤマの娘であるノハラを誘拐したという事とノハラの自殺未遂だった。この事件はHAHにとって打撃ではあったが、世間はシオがノハラを救ったという美談の方に飛びついた。僕らが壊した57ナンバー達がどんなプログラムをされていたかという事や、逮捕されたリュウタが送検されたニュースなどはその影で静かに伝えられたのだった。
 それから一ヶ月が過ぎ、僕の周囲もようやく静かになった。今日は修理していたシオを迎えに、サービスセンターまでやって来たのである。
 スーツの上に白衣を羽織ったシュウヘイがニコッと笑って「今連れて来るよ」と奥の部屋へ行き、シオを伴って戻った。僕らを客用のソファに座らせ、彼も向かいに腰掛けて手にした受注書をめくった。
「部品は在庫のなかった物以外は全て50ナンバー用だ。仕様もそのまま。人間で言うところの皮膚と筋肉は最新の素材だけど、動きは50のままだ。それでもいい?」
「はい」
「バッテリーは57と同タイプに取り替えた。以前より長時間稼働する。変わったのはそれだけ。良ければここにサインを」
 僕はペンを受け取ってサインした。それを見たシュウヘイは「以上、事務的な話は終わり」と言って微笑んだ。
「記憶喪失にならなくて良かったね」
 彼のその言い方がおかしくて、僕はフフと笑った。
「…ノハラとは会ってる?」
「ノハラの所はマスコミがうるさかったから…最近やっと静かになったからシオと一緒に行こうと思ってて、あれから全然…」
 そう答えながら、シュウヘイはなぜそんな事を訊くのかと思った。
「シュウヘイ、ノハラから聞いてないの?」
「僕もあれから会っていないんだ」
「どうして!」
 僕は思わず大声を出してしまった。サービスセンターの人々が何事かと振り返る。僕は彼に顔を近づけて声を落とした。
「何でだよ」
「…毎日病院に行っているんだけど会わせてもらえないんだ。コミヤマの社員だか知らないけどノハラにつきっきりの奴に『ノハラさんはお会いしたくないそうです』って、花も受け取ってもらえやしない」
 シュウヘイはがっくりと肩を落とした。僕は「ロミオだからねえ」と頷いた。
「ろみおって何」とシオ。
「ロミオ君とジュリエットちゃんの悲劇的初恋の物語があるんだよ」
「悲劇」と考え込んだシオはくるっとシュウヘイに顔を向けた。
「がっかりしないで、シュウヘイ」
 シオが本当に変わらないのを知って僕は嬉しかった。
「…シロウは…」と彼は両手で鼻と口を覆って少し言いにくそうにしていたが、
「ノハラは僕を好きなんだと思う?」
「うん。そう見えたけど」
「じゃあ何で会いたくないんだ。うちを辞めてから一年も音信不通だったし」
 シュウヘイは丁寧にティーカップを横に除けてからテーブルに突っ伏した。本気か冗談かよく判らない。それでもシオは「元気を出して」と本気で心配している。
「まあまあ、ノハラに直接『顔も見たくない』って言われた訳じゃないんだろ?」
「そこまで言われてないよ…」と起き上がった彼は心底がっかりした顔だ。僕が確かめて来てやるよ、と請け合った。
 シオの修理費は事件の事もあって全額HAHが負担してくれた。納品書を受け取って、僕とシオはノハラの入院している病院へ行った。
 シュウヘイの言っていた人物は腕っぷしの強そうな大柄な男だった。こんな男に脅されたらノハラに会えずに帰るしかないだろう。僕が名乗ると彼はシオを見て「ノハラさんを助けてくださって」と事務的に頭を下げた。無表情な奴だな、と思った。
 ノハラは真っ先に「シオ」と言った。
「本城君も。来てくれて嬉しいよ」
 傍らの椅子を勧められて僕らは腰掛け、ノハラに「経過はどう」と訊ねた。
「シオのおかげで…こうして元気だよ。腰を打ってしまって…脚が動かないんだけど、それは手術すればね」
 彼女はずれた眼鏡を指先で上げながら微笑んで答えた。
「シュウヘイが会いたがってたよ」と言うと、彼女は「知ってる」と俯いた。
「でも会いたくない」
 僕はまた大声を出しそうになって、息をぐっと呑んでから訊ねた。
「…何で」
「あんな事の後に会える?」
「…確かに、コミヤマとHAHの溝は深いけどさ…」
 僕はそれ以上言うのをやめた。リュウタが逮捕されて安全になったとはいえ、ノハラは飛び降りる程まで思い詰めていたのだ。家や企業までもが絡んだ二人の問題に口出しできる立場ではなかった。
 また来る、と僕らは病室を辞して、一階のロビーからシュウヘイにコールした。「どうだった」とカメラに縋るように訊ねる彼に、僕は一歩引いてしまった。
「ノハラは会いたくないって言った」
「そんな…」
 画面のシュウヘイがどこかに落ちるように消えた。
「でも、僕はノハラが嘘をついてると思うよ」
「…そう?」と言って彼はヒョコ、と画面に顔半分、目までを覗かせた。
「本当は会いたいんじゃないかな」
「よし判った」
 プツッとコールが切れてしまった。
 僕は通話を切ってカードを抜いた。あの勢いなら、彼はここに飛んで来るだろう。
 飛んで、と思って、彼にシオの翼の事を訊きそびれたと気が付いた。部屋に戻る道を辿りながら、僕はシオに訊ねた。
「ノハラをつかまえた時、どうして一緒に落ちたんだ。屋上に引き戻せば良かったのに」
「落ちるノハラに引っ張られたから」
「…それじゃ仕方ないな」
 シオはぴたりと立ち止まり、記憶を探っているのかじっとしていたが、また歩き出しながら口を開いた。
「シロウの指示だったから」
 僕は驚いてシオの顔を見た。「僕?」
「シロウは、私がした方がいいと判断した事をしていいと言った」
「シオ」
 僕は彼女の肩に手を置いて立ち止まった。
「それは僕の指示ではなくて、シオのしたい事だったの。シオの望み。シオの意志」
「望み。意志」とシオは動かなくなって、それを覚えるとニコッと笑った。
「早く帰ろう。キリエが待ってるよ」
 あれ以来、キリエは僕の部屋───いや、シオの部屋に戻っていた。ノハラとシオが落ちたショックで丸一日泣いていたのだ。その間、僕はずっとキリエに着いていた。数日後、ようやく落ち着きを取り戻したキリエは僕にこう言ったのだった。
「私はシロウと出会って、自分がさびしがり屋だって知ったの」
 さびしがり屋の彼女は「ここがいちばん自分らしく居られるから」と同居を申し出た。僕らの関係がこれからどうなるかは判らないが、僕とキリエと、そしてシオの三人で新しい暮らしが始まる。
「シロウは幸せ?」
「何だ、急に」
「キリエが、誰かが側に居るのは幸せと言った」
「そうだね。うん。幸せだ」僕は頷いてシオを見た。「シオは幸せ?」
「私?」とシオはきょとんとした。動かずに考え込む。やがてぱちぱちと瞬きをすると、スッと手を動かし、指先で僕の耳に触れた。
「ひゃあっ」
 ピッ。
「36度5分。人の体温を感じるのは幸せ」