夢うつつ




 明け方、頭の上にお兄さんの大きな手が載って目を覚ました。見るとお兄さんは目を閉じたまま「霖。霖」と何度もわたしを呼んで、返事の代わりに鼻先でお兄さんの頬を撫でると、開いた両目から涙がぽろぽろと落ちた。お兄さんは照れくさそうに笑って目を瞬くとスンと鼻を鳴らし、わたしの顔にいっぱいキスをして、そのまままた眠ってしまった。
 不思議なお兄さん。
 お兄さんは怖い夢を見たのかもしれなかった。お兄さんから離れちゃいけない、そう思った。




 今朝は目覚まし時計がベルを鳴らさなかった。ゆっくり起きたお兄さんはベッドの上に座ったまま、しばらくぼーっとしていた。
 お兄さんから離れちゃいけない。
 わたしはお兄さんの脚に背中をつけて身体を丸めた。わたしはここにいるよ、そばにいるよ。やがて「…ああ、霖。朝ごはんだね」と掠れた声で言った。振り返るとお兄さんはいつもの笑顔だった。
「今日は休みだから、病院へ行こうね」
 病院?
 わたし、病気じゃないよ?
「虫除けの薬を貰って来なくちゃ」
 そう言って、お兄さんはカップでカリカリごはんを測って茶碗に入れた。ああ、それなら……高橋さんの家でも月に一度、つけてもらっていたから判る。わたしはベッドから飛び降りて、カリカリごはんを食べ始めた。それを見てようやく、お兄さんは自分の朝ごはんのパンを一口食べた。そのまま歩いて机に向かい、椅子に座る。パンを食べながら、お兄さんはパソコンに向かい、何か調べているようだった。
 食事が済んで、お兄さんは煙草を吸ってから、「ちょっと狭いけど我慢してね」とわたしをカゴに入れた。カゴ、イコール病院、と経験から判っていたので、わたしは「痛くないといいなあ」と思った。
 お兄さんはカゴを提げて歩いて、十五分ほどで病院に着いた。見覚えのない病院。待合には誰もいなかった。受付でお兄さんは何やら紙に書いていて、「お待ちください」と言われてまもなく、診察室に通された。
 体重と熱を測って、お腹に触り、「健康ですね」と先生が微笑んだ。
 それから機械を使って検査をした。
「避妊手術はしてありますね。他の臓器もきれいです」
「よかったね、霖」
とお兄さんの手が背中を撫でた。
「今日はノミダニの薬ですね、用意するのでお待ちください」
 再びカゴに入れられ、待合に戻ると、そこにはカドスケさんがご主人と一緒にいた。カドスケさんは大きいから、カゴには入らない。ご主人の手に太いリードがしっかりと握られ、おすわりの姿勢でじっとしている。わたしの黒いカゴの外からは、わたしが見えないらしかった。「井上さん、井上ジョイちゃん、どうぞ」と呼ばれてカドスケさんはご主人に連れられ診察室に入って行った。カドスケさんの名前はジョイだとみんな知ってるけど、井上さんの家は曲がり角にあり、犬小屋も家の前の駐車場にある。鎖で繋がれて、いつも角の所に居るので、みんな彼をカドスケさんと呼んで慕っている。あとでお散歩の時にカドスケさんに会いに行こう……と思った。




 部屋に戻ると、お兄さんは「お疲れ様」とカゴから出してくれた。
「前の飼い主さんは良い人だったんだね。霖がこんなに元気なのも、前の飼い主さんのおかげだよ」
 そう言って、わたしを胸に抱えた。
「どうしてひとりぼっちになっちゃったの?……なんて、答えられる訳ないか」
 わたしの頭をゆっくりと撫でる。「安心してね。僕は霖をひとりにしないから」
 うん。わたしも。お兄さんをひとりにしないよ。
 人の言葉で伝えられたらいいのになあ、と思っていると、お兄さんはわたしをぎゅっと抱きしめ、背中を撫でた。何か言うのかと待ったけれど、お兄さんは何も言わなかった。ただ、背を撫でるのを繰り返している。
 ───もしかしたら。
 今朝、お兄さんは怖い夢を見たのではなくて、寂しい夢を見たんじゃないか。
 わたしは、お兄さんが泣いてしまうのではないかと思って、身じろぎした。顔を覗き込むと、寂しげな微笑がそこにあった。




 お兄さんが壁に寄りかかって座り込み、ギターを弾き始めたので、わたしは散歩に出ることにした。無性に、カドスケさんに会いたかった。井上さんの家が近づくと、カドスケさんがいつもの通り、曲がり角の所に居るのが見えた。わたしが駆け寄って挨拶すると、「あれ以来だね。元気だった?」と訊かれた。
 そこでお兄さんに拾われたことを話した。今は『霖』と呼ばれている事も。
「今朝、病院にわたしも居たんだよ。カドスケさん、どこか悪いの?」
「歳をとったからね。月に一度、診てもらってるんだよ。ついでにノミダニの薬もね」
 カドスケさんは白い犬だ。昔は真っ白だったのだろうけど、今は少し茶色がかった毛並みをしている。それが歳を物語っていた。
「新しいご主人も良い人そうだね」
「うん」
「君はツイてる猫だね。置いて行かれたその日に拾われるなんて」
「うん…」
 けれどお兄さんはどこか寂しそうだ。夢を見て涙を流すほど。
「カドスケさんは、いつもここでひとりで寂しくない?」と訊いてみた。
「うん?飼い主さんのことかい?」と彼は目を細めて、「そんなことはないよ。いつも決まった時間にごはんもくれるし散歩にも連れてってくれる。それに僕は、ここでいろんな犬や猫が通りかかりに声をかけてくれるのが嬉しいんだ。もちろん、人もね。ひとりじゃないよ」
 ひとりじゃないという言葉が、達観しているようにも見えた。わたしよりずっと大人だからだろうか。
「あ、犬と猫が一緒にいる!可愛い!」
 角を曲がって来た高校生らしい女の子が二人、わたしたちに目を留めた。「写真撮ろう」と携帯電話を構える。サービス精神旺盛なカドスケさんがわたしの横に並んで女の子たちの方を向き、舌を出して笑ってみせた。カシャカシャと写真を撮る音がして、「仲いいねー」とわたしたちの頭を撫でて通り過ぎて行った。
「ほら、こんな風にね」とカドスケさんはハッハッと息を吐くように笑った。
「生きている限り、誰かと通りすがりでも触れ合うんだよ。それって素敵だと思わないかい?」
 やっぱり、カドスケさんに会いに来て良かった、と思った。




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