霖霖と




 シャケを焼く。
 冷凍してあったのを一切れ、電子レンジで解凍して網に載せた。朝のニュースを聞きながらおおよその時間を計る。そろそろだなと思った時、案の定呼び鈴が鳴った。黒猫を抱いた彼は、玄関先でクンと辺りの匂いを嗅いだ。
「珍しい。王さんが朝御飯作ってる」
「今朝はお腹が空いたんだ」
「ふうん」
 彼はにっこりして僕の腕に黒猫を抱かせた。「じゃあね、霖。シャケの骨に気を付けるんだよ」と指で猫の目と目の間を撫でて耳に軽くキスをした。
 見てるこっちが恥ずかしい。昨夜一緒に寝たと顔に書いてある。
 彼は「いってくるね」と僕らに軽く手を振った。
 霖がこのアパートの周辺に慣れるまで、僕が昼間に霖の面倒をみる事になった。戸を閉めて霖を床に下ろし、台所に立つ。霖が部屋を横切る軽い足音。カリカリというかすかな音に振り向くと、霖はベランダのガラス戸をひっかいていた。火を止めて戸を開けてやった。霖はベランダの柵から頭を突き出して、落ちてきた雨に慌てて首を引っ込めた。
 降り止まぬ雨は冷たく辺りを濡らしていた。部屋の空気を入れ替える間、霖は寒そうに背中を震わせ、ベランダにじっと座って表を見ていた。




 霖を霖霖洞へ連れて行く。この雨では外にも居られないのだから仕方なく、昨日彼がしていたように霖を上着の懐に入れた。傘を開いて歩き出すと、霖が懐で暴れた。上着の裾からするりと降りて駆けてゆく。
「霖、」
 呼び止めたが彼女は振り向きもせずに角を曲がって居なくなった。
 所詮、拾った猫なんてこんなものだ。知らず溜息が出た。
 霖霖洞には雨宮さんが既に来ていて、仕入れた品に値を付けていた。それが済むと「後はよろしく」と出て行った。掃除を終えた僕は値段表を見ながら商品に値札を貼り、後はのんびりと留守番をするだけになった。
 こんな雨の日には人通りも少ない。時折、誰かがウインドウの前に足を止め、店を覗き込んで行く。ウインドウには霖霖洞の顔とも言うべき腕時計の数々が標本箱に収められて並んでいる。この店に若い男性客が多いのはそのためだ。遠方からはるばる訪れるコレクターもある。雨宮さんは殊に腕時計が好きで、骨董の道に入ったきっかけもアンティークの時計の意匠に惹かれたからだという。
「りんりん、って、目覚まし時計のベルの音みたいだろう」
 そう言って雨宮さんは笑った。しかしこうも客が来なくては眠ってしまいそうだ。
 柱時計がボーンと一つ鐘を打って午後一時を告げる。ウインドウの向こうに赤いエプロンのさつきさんの姿が見えて僕は本を閉じた。彼女は扉を開けるなり「ああ、こらこら」と言った。
 びしょ濡れの霖が雨を滴らせてこちらへやってくる。僕は鞄からタオルを出して、座敷に上がる霖をつかまえた。
「この子、ドアのとこに居たんよ」
「うん。いいんだ」
「王さんの猫?」
とさつきさんはランチを載せた盆をテーブルに置いた。霖を拭きながら「いいや。預かってる」と答えると、彼女は「へーえ。にぼし、にぼし持ってくる」と飛び出していった。
 さつきさんは二軒隣の喫茶店の娘さんだ。父親と二人で店を経営している。おそらく僕より年上だろうが、小柄で、肩下までの髪を後ろでひっつめて額を出した顔は丸く、幼く見える。
「にぼしー」と歌うような調子で朗らかに言いながら戻ったさつきさんは座敷に上がって正座し、背中を丸めて霖の前ににぼしを載せた手を置いた。体を舐めて毛並みを整えていた霖は、にぼしとさつきさんの顔を交互に見て、おずおずとにぼしを食べ始めた。
「おいしいかこらー。よしよし」
 畳に顔をつけるようにして霖を見ているさつきさんの横で、僕もカニピラフを食べ始めた。
「店はいいんですか」
「今日忙しい?王さん」
「…暇ですね」
「この子、名前何て言うの」
「霖。霖霖洞の猫だから」
「預かってるんじゃないの?」
「霖霖洞で預かってる」
「安直」
「飼い主が付けたんだ。霖霖洞で拾った猫だから霖」
「やっぱ安直だよ」
 さつきさんは呆れた顔で体を起こした。




 あたたまって空腹を満たした霖は午後をほとんど眠っていた。一度起きて、店の中をうろうろと歩き回っていたが、棚に上ったり物を倒したりはしなかった。霖は好奇心旺盛な子猫ではなく、何をしてはいけないのか心得ている大人だった。雨の日にはじっとして体力を使わないのが本能でもあるのだろう。僕のフリースのジャケットに蹲って丸まっている様は置物のようですらあった。
 夕方に飼い主が現れて「霖」と呼ぶと、霖は待ちかねたように飛び起きた。「ただいま」と言いながらペットショップの大きな紙袋を座敷に置く。「おみやげがあるんだよ」と、キャットフードやらトイレの砂やらを次々と出した。僕は無地の紙袋を彼に渡した。彼はおみやげを新しい袋に詰め直しながら、ふっと笑った。
「僕ら、共犯者って感じだね」
「君の単独犯だ」
「みー」
 彼はあからさまに肩を落としてみせ、唇を尖らせた。霖は彼の膝に乗って紙袋を覗き込んでいる。
「102号の下島さんには絶対に見つかるなよ」
「聞いた?霖」
「君に言ってるんだ」
「僕?」
 彼は大きな目を丸くして僕を見た。長い睫毛、真っ黒の瞳。薄く笑った顔は女の子のようだ。霖の背を撫でて彼は目を細めた。
「うん。下島さんは猫好きだからね」
「……」
「ほんとは飼いたいんだよ、下島さん。でも前のアパートで野良猫可愛がってたらいっぱい集まっちゃって、それで引越しなくちゃならなかったんだ。だから今、ごみ捨て場なんかで猫見ると追い払ってる」
 僕は、魔女の如くホウキで猫を追い払う下島の婆さんの姿を思い出し、知らなかった事実に彼から顔をそむけた。
「…下島さんとはよく話す?」
「あんまり。霖、首輪つけてあげるよ」
 彼は首輪についたタグを破ってこちらに見せた。鮮やかな水色だ。彼はサインペンを取って、首輪をテーブルに置いた。
「霖は僕の猫だよ」
 そして彼は首輪の裏に電話番号と自分の名字を書いて、最後に≪霖≫と付けた。




 雨宮さんは言わないが、≪霖霖洞≫の名は自分の名前から付けたのではないかと僕は思っている。
 霖とは降りしきる雨を意味する。霖霖と文字を連ねれば、降り止まぬ長雨の事を言う。
 この洞に留まる僕らは、止まない雨を避けているのだろうか。
 それとも雨に打たれ続けているのか。
 雨宮さんが仕入れから戻って、今日は早仕舞いになった。僕と彼とで片づけをして店を出る頃には雨も小降りになっていた。彼は珍しく持っている傘を差さずに歩く。何となく僕も傘を差す事が出来なかった。「霖はおとなしくしていた?」と訊かれて「ずっと寝てた」と答えた。
「君だとおとなしくしてるんだな。僕が抱いて連れて行こうとしたら逃げられた」
 すると彼は「んー?」と首を傾げ、上着の首から覗く霖の頭に鼻をこすりつけていたが、ふいにくすっと笑った。
「雨降ってたでしょう?王さん、傘差したでしょう」
「ああ」
「霖は傘にあたる雨の音が怖かったんだよ。ねえ霖」
「……」
「怖がりさんね」
 ああそうか、と僕は彼の懐の霖を見た。傘の下で雨音は大きく聞こえる。「王さん、それで拗ねてたの?」と言われて返す言葉もなかった。
「じゃあ、霖の歌を歌いながら帰ろう」
「霖の歌?」
 彼はふふと笑ってこう歌った。
「勇気の鈴がーりんりんりーん」





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