開いた扉




 いくら呼んでも誰も扉を開けてくれなかった。
 そのうち怒鳴り声と水がたくさん降ってきて、わたしは慌てて逃げた。
 カドスケさんが「高橋さんちね、引っ越したよ。トラック来てた」と教えてくれた。
「きみ、置いてかれたんだよ」
 判っていたけれど、誰かから言われるとそれは本当に本当の事なのだと思って、悲しいのを通り越して呆然とするしかなかった。お父さんが亡くなって、引っ越さなければならない事や、団地で猫を飼えない事やなんかをみんなが話し合っているのを聞いていたから、もしかしたらこういう事もあるかもしれないと思った事もあった。
 うん。知っていた。知ってた。知ってた。知ってた……
 胸の内で繰り返しながら一歩一歩と歩いた。雨をしのげる軒は大抵誰かの物で、空いた場所を探すうちに大通りまで出た。歩道の屋根の下に入ってほっとした。ここなら誰かのテリトリーという事もないだろう。わたしは大きな布を張った看板の陰に蹲って隠れた。ここなら今夜一晩くらい居られるかもしれない。
 しばらく経って、誰かが「あれっ」と看板の向こうから顔を覗かせた。
 その人は背の高い痩せた体を半分に折るようにして看板に凭れ、顔を近づけて、大きな黒い目でわたしをじっと見た。右手がすっと伸びてきて、「こんな所で何をしてるの」と顎を指先で撫でた。
 彼は「よいしょ」とわたしを抱き上げた。「わあ、びしょぬれだ」と言う彼も雨に濡れて笑っていた。彼はわたしを抱えたまま、目の前の扉を開けた。
「こんばんは」
 家の中に居た人はわたしたちを見るなり眉間に皺を寄せて目を細め、無言で立ち上がった。くるりと背を向けて大きな暖簾の向こうに消えた。やっぱり、黒猫を見ると人は大抵嫌がるのだ。わたしが身を小さくすると、わたしを抱えるお兄さんは「ちょっと待っててね」と背中をさすった。やがて戻った眼鏡のお兄さんはタオルを二枚こちらに寄越して元の場所に座った。笑顔のお兄さんは一枚を自分の頭にひっかけて座敷に座り、もう一枚でわたしの体をごしごしと拭いた。
「どうした、その猫」
「寒そうだったから」
「猫は大抵寒がりだ」
「うん」
「猫は大抵寒そうにしているものだと言ってるんだ」
「うん」
 わたしを拭き終えたお兄さんは上着のファスナーを下ろしてわたしを懐に入れ、頭だけ出してファスナーを上げた。わたしの頭の上に顎を載せて言う。
「これならあったかそう?」
「……」
 眼鏡のお兄さんは呆れたように小さく溜息を吐いた。「ふふ。あったかいよ」と頭の上の声。
「あったかそうでも寒そうでも、飼えない事に変わりはない」
「みゅー」
 お兄さんは変な声を発して腕組みをし、わたしを上着ごと抱え込んだ。お兄さんの頭のタオルがはらりと落ちた。眼鏡のお兄さんはこちらを見ない。
「飼えもしないのにそうやって情けをかけるのが良くないんだ。無責任な愛情は愛情じゃない」
 それなら、高橋さんの愛情は愛情じゃなかったんだろうか。ずっと可愛がってくれたのに。
 あったかいお兄さんはしばらく黙っていたが、ふいに顔を上げて楽しそうな声で言った。
「こういうデザインの服って事で押し通す」
「夏も?」
「……」
 わたし、居ない方がいいのかな。
 でもここはとてもあったかい。上着から抜け出そうと身じろぎすると悲しくなった。あったかいお兄さんは「みゅ」とだけ言ってわたしを押さえつけた。
 判るんだよ。高橋さんの愛情が愛情じゃなかったなんて事は決してないんだよ。
 わたしの名を呼んで膝に載せてくれた。わたしを撫でて、わたしを抱いてくれた。
 それはとてもあったかかったんだ。
 今みたいに。
 ただそれが、いつ終わりを迎えるのか、それだけの違いなんだ。
 一時でも、愛情は愛情。人の言葉が話せればなあと思った。
 それとも、わたしがそう思いたいだけなんですか。
 眼鏡のお兄さんはちらりとこちらを見て座椅子の背に凭れ、「君が拾ったのなら君の猫だ」とそっぽを向いた。あったかいお兄さんは「うん」と俯いて、鼻のあたまをわたしの額にこすりつけた。
 ぼーん……
 初めて聞く音にびっくりした。お兄さんがぎゅっとわたしを抱きしめ、優しい声で「時計の音だよ」と言った。
 ふいに扉が開いて、「ただいま」と髪の薄い痩せたおじさんが入って来た。おじさんはわたしたちに目を留めた。
「いらっしゃい。…その猫は?」
「こういうデザインの服です」
「はっはっは」とおじさんは高らかに笑った。




「名前決めなくちゃね」
 ぽつぽつと雨音が聞こえる。お兄さんの上着の懐でわたしはうとうとしていた。おじさんのお店でミルクとごはんをごちそうになって、部屋に向かって歩くお兄さんのあったかい胸にゆらゆらと揺られて、とても気持ちが良かった。
「霖霖洞の猫だから霖」
「それは君の猫だろう」
「じゃ、僕の猫1号」
「霖でいい」
「1号だからいちごちゃんね」
「霖でいいと言っただろう」
「王さんは霖がいいんだって。良かったね、霖」
 りん、と呼ぶお兄さんの声は少し掠れて、耳をかすめてすうっと消えた。





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