きみの声




 まるで生まれて初めて雨を見るような気がして空を見上げた。
 地上の光を受けて、雨は瞬きながら落ちてくる。それは次から次と僕の目の中で消えていった。
 地下鉄駅の出口から水溜まりを跨いで大通りを渡り、歩道の屋根の下に飛び込んだ。しばらくは濡れずに済む。雨に濡れた目を擦った。曲がるべき角で足を止める。霖霖洞のウインドウの奧には王さんがひとりきり、本を読んでいるのが見えた。このまま部屋まで走って帰っても良いけれど、何となく、王さんと話がしたい気分だった。僕は霖霖洞の扉を引いた。
「こんにちは」
 外気に冷えた息が白く流れる。
 王さんはチラと目を上げただけで、何も言わない。僕は足元の火鉢や桐の箱に気を付けながら、陳列棚を兼ねた古い家具の隙間を奧へと進んだ。霖霖洞は、骨董屋だ。何でもいい加減にごろごろと転がっているけれど、何にどんな値が付いているやら判ったものじゃない。
 王さんは読みかけの本を閉じると傍らの文机に置いて立ち上がり、葡萄茶の暖簾の向こうへ入っていった。僕は思わずふっと笑いを洩らして、スニーカーを脱いで座敷に上がった。座敷と言ってもわずか三畳程で、小さな文机と茶箪笥と、上に板を載せて座卓代わりにしている長火鉢があるきりだ。客用の座布団もあるが、僕は客ではないので使わせてもらった事はない。
 黙って戻った王さんは、熱い番茶の湯呑みを僕の前に置いた。「ありがとう」と言うと、彼はようやく口を開いた。
「また傘を持っていないのか」
「だって天気予報じゃ夜から降るって言ってたし」
「天気予報じゃ、今頃の時間を夜って言うんじゃないのか」
「微妙なとこだね」
 僕らは座敷から大通りに面したウインドウを振り返った。青い色がまた降りて重なり深みを増した逢魔ヶ時。交差点の信号の赤がぽつりと滲んでいる。冷えた手を湯呑みで温めた。
「この火鉢、使えるの?」
「使えるだろうが、使っているのを見た事はない。…寒いのか」
「寒いのは好きだよ」
と答えて、僕は体を曲げて板の下の長火鉢を覗き込んだ。昔、火打ち石や煙草等を収めていたと思われる抽斗が付いている。開けてみたら、マルボロと100円ライターが入っていた。かつての長火鉢は今、この霖霖洞で「テーブル」と呼ばれている。体を起こすと、王さんも同じように背を丸めて火鉢を見ていた。
 王さんとは同じアパートで、彼は僕の真上の部屋に住んでいる台湾人だ。今年の春に引っ越してきて、僕の部屋にも挨拶にやってきた。
 色白の細面。目にかかる長い前髪と丸眼鏡。無表情で無口。たまに擦れ違いざまに挨拶を交わす程度だった。三ヶ月程前の日曜日、干した布団を叩いている僕の頭の上に彼が毛布を落っことすまでは。




 毛布を抱えてドアを開けた時、いつも無表情な王さんが焦りに目を見開いて僕を見て、開口一番「すみません」と言った。大丈夫でしたから、と毛布を渡し、その時はそれだけだったのだが、夕方にもう一度彼が訪ねてきて「お詫びに」と夕飯に招待されたのだった。台湾の人だけあって舌が肥えているのか、彼の作った料理はどれも美味しかった。独り身で料理に慣れているのもあるだろう。おいくつですかと尋ねると僕より一つ上だった。同年代で話も合い、酔いも手伝ってかいつのまに親しく話し込んでいた。そうして、彼がこんな事を言い出した。
「時々、夢を見るんですよ。僕の足元に死体が転がっている」
「…死体?誰の」
 聞き返されて、彼は驚いた顔で僕を見た。そして眉を寄せて苦笑し「誰だろうなんて考えてもみなかった」と言った。僕は頷いて「そうですか。それで?」と続きを促した。
「その死体は体を横にして倒れている。腕を胸の前で交差して、体を丸めているんだ。まるで何かを抱えているようにね」
「ええ」
「いつも同じ姿勢をしている。僕はその死体を見下ろして立っている。たったそれだけなんだ」
「怖いですか」
 僕の質問に、彼は「いいや」と答えた。
「むしろ僕は起きている時に、その人の事をよく考える。その人が目を覚ましたら、と」
 誰だろうと考えてもみないのは、彼がその人に対して親しい感情を持っているという事だ。それがどんな感情なのかと思って怖いかと尋ねた。そうして、彼の答えとその穏やかな声、優しく目を細めた表情で、僕は彼を好きになった。




 ジィィ、カチッ。
 微かな溜息の後でボーンと柱時計が一つ鐘を打った。
 コツ、コツ、と、それまで気にならなかった小さな音が、鐘の後ではしばらく耳につく。このひとときが僕は好きだ。コツ、コツ、コツ、コツ。ジィィと深呼吸をしてボーンと僕を呼ぶ金属質の声、そして鼓動。
 良い時計の音はやわらかい。そう言ったのは霖霖洞の店主の雨宮さんだ。
 実際、ここは何もかもがやわらかく心地好い。
 古い木の匂いと空気の湿り、あたたかな明かりと静けさ、そして物と物の隙間や奧の暗い影。
 ここは洞穴。
 時間と空間の胸にぽっかり空いた穴だ。
 そうして僕らはその胸にすっぽりと抱かれている。
「ねえ」
 僕は湯呑みを置いて膝を抱えた。
「王さんはどうしてここで働こうと思ったの?」
 彼は軽く首を傾げ、唇を結んで少し考えていた。ややあってぽつりと答えた。
「居心地が良さそうだった」
 彼の答えに僕はまたふっと笑ってしまった。「うん」と膝に頬を付けて目を閉じると柱時計のコツコツという音の向こうに、雨音がサアアと聞こえてくる。




 雨宮さんが戻ったのを潮に、僕は帰る事にした。雨宮さんは「傘を持って行きなさい」と言ってくれたが、近いからいいですと断った。扉に手を掛けた時、王さんが僕を呼び止めた。
「今日、うちに来ますか」
「…ううん。ごめんなさい」
「そうか」と彼は微笑した。「また今度」
 誘ってくれたのが嬉しかったので、僕も笑みを返して表に出た。霖霖洞の角を曲がって坂を下り、細い運河に架かる橋を越える。雨を頬に受けてゆっくりと歩いた。
 頬に、肩に、耳に触れるたびに雨が僕に囁く。
 一粒、また一粒、ぷちんと弾けては、儚く消える声。
 雨粒が僕の名前を呼ぶ。
 優しく、優しく。
 空を見上げて「なあに」と答える声が掠れた。目の端からこぼれた滴が雨と抱き合って落ちていった。





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