君さえいれば-6

RYOSUKE IZUMI

「3カメ。もう少し引いて彼から彼女に」
「はい」
 調整室からの指示通りに、まず火村さんのバストアップ、次にその後ろにぼんやりと映っていたアリスさんに焦点を合わせる。
 番組も終盤に差し掛かって、やっとテレビカメラの操作にも慣れた。遅い。終始足元のモニタを意識しながらでないと、思うようにステージを捉えられない。
 汗が顳かみをつーっと流れ落ちるのが判った。
 僕が「彼は普通じゃない」と言った時に、EMCのメンバーは「やはり」という感じで倒れていたが、おそらく江神さんは僕の言葉の意味するところを理解していたのだろう。一瞬横目で見遣ると、皆緊張の面持ちで舞台を見守る中で、彼だけは落ち着いて見えた。
「………アリス」
 スタンドマイクの前に立つ火村さんは横を向いた。
 その目には彼女しか映っていないのだろう。
 彼女だけを残して周囲の景色はすべて掻き消えてしまった視界    世界。
「1カメ彼女のアップ。2カメそのまま、3カメ彼にゆっくり寄って」
「はい」
 火村さんの話す速さに合わせてゆっくりと彼をアップにしてゆく。
「……初めて会った時、俺はおまえを何だかぼんやりした娘だとしか思わなかった」
「それってここで言う台詞?アリスがボケだって言ってるようなものじゃない」
 マリアさんの鋭い突っ込み。
「だがいつのまにかおまえは俺の心に入り込んで……俺の心を滅茶苦茶にかき回した」
「滅茶苦茶なのはおまえやろ」
 望月君の正直な感想。
 滅茶苦茶に    と彼は言う。
 彼の中で常識は覆され、理性は意味を失う。それは、    
 アリスさんがフレームアウトした。ズームを止める。「3カメそのまま」「はい」
 静かに息を吐いた。
「なぜおまえは俺をこんなにも狂わせる」
「うッ」
 信長君が心臓を押さえて俯いた。
 観客席にも彼と同様に俯いた人間が何人か。
「おまえがそばにいないだけで、俺は息も出来なくなる。判るか、おまえがいなければ俺は生きていけないんだ」
 俯く人数が増えた。
「アリス    愛している」
 気温が一気に上昇し、数人が椅子から転げ落ちた。
 僕は急いで額の汗を手で拭った。汗が目に入るとやりにくい。
「2カメ少し引いて」
 横のモニタで2カメの映像を見る。火村さんと、椅子に腰掛けたアリスさんが映っている。アリスさんは真っ赤になって俯き、膝の上で組んだ両手をぎゅっと握った。
「俺はおまえがいるだけで……強くなれるんだ」
 逆に言えば    何と脆い事か。
 今、彼の世界で、はっきりとした姿を持っているのは彼女だけだ。
 それが失われてしまえば、世界はぼんやりと曖昧な姿しか持たない霞のようなものになってしまう。足元の大地は崩れ、空との区別もつかない形のない世界で、彼は何処に立つ事が出来るというのだろう。
「おまえがいてくれれば、俺はもう何も怖くない……」
 わずかに、彼の顔が曇った。「チッ」もっと寄りたいが調整室からの指示が出ない。
 気が狂いそうな程に不確かな世界でただ一つの確かな存在。
 それを手にするだけでいい。この、腕に    
 それだけで世界は形を得て姿を現し、彼は悟る。
     俺は生きていると。
「おまえを離したくない。……ずっと、そばにいてくれ」
 ………由加が泣いている。
 見なくてもその小さな体が震えているのが、気配で判る。
 火村さんがマイクをスタンドごと掴んで歩き出す。予定外の動きだ。
 歯を食いしばって、震え始めた腕に力を込めた。焦点に注意を払って火村さんを追う。
 由加が泣いているのに気づいたマリアさんが、小声で彼女に何か話しかけているのが目の端に見えた。
 世界が崩れ落ちる程の孤独の恐怖を    彼女だけが……
 汗が目に入った。
 指で眼鏡を持ち上げながら目を擦る。震えの止まらない片手で火村さんを追うカメラを支えきれない    ギリッと奥歯を噛みしめた。このままズームアップ。
「3カメいいぞ。もっと寄って」
 よし。
 火村さんがアリスさんの傍らにマイクを立てた。ここからでは横顔だが、目一杯寄れば充分だ。
「アリス…。おまえに会えない日は夜も眠れない……。胸が締め付けられて息が出来ないんだ。苦しくて……」
 ぱたぱたと観客が倒れてゆく。
 ステージの隅の古田は微動だにしない。……地蔵になっていた。
「……おまえが俺をこんなにしてしまったんだ。心臓が張り裂けそうだ……」
 ほぼ全滅かと見られる観客席から、誰かがすっくと立ち上がった。
 おかっぱ頭の女性だ。澤田のマイクが、今にも泣きそうな彼女の声を拾った。
「シロウ!あの人は病気なの!このままでは死んでしまう!」
「シオ!」
 ステージに向かって駆け出した彼女に、シロウと呼ばれた長身の男が慌てて席を立って「待ってシオ!」と追う。ロングヘアの女性が後に続いた。
 火村さんはもう周りが見えずに、アリスさんの手を取って立ち上がらせ抱きしめた。
「きゃああああアリスー!……あんの暴走超特急そこまでするかああ!」
 マリアさんが叫んでステージに向かう。EMCの皆がマリアさんに続き、向こうでは有栖川先生もハリセンを手に「火村あ!」と叫んで駆け出すのが見えた。
 インカムから「あれは何だ、どうしたんだ一体」と、慌てふためく声が飛び交うのが聞こえた。
     やってやる。
「1カメ火村さんとアリスさん中心、2カメ全景」
 横で由加が顔を上げるのが判った。……こちらを見ている。
 おかっぱの女性がものすごい力で火村さんをアリスさんから引き剥がして、彼はその勢いで床に転がった。アリスさんが「先生!」と助け起こそうとする。
「…誰だ、今指示を出したのは!」
「3カメ和泉です」
 マリアさんがアリスさんを抱きかかえた。澤田のマイクが拾う声「もうっ、こんな奴えんがちょよっ!」が震えている……澤田、笑っているのか。
 桜木さんが騒ぎの外で一人、呆然と立ち尽くしている。ノハラさんは、と見ると、彼女も驚いて奥のソファに座ったまま動けないようだった。
 桜木さんがゆっくりとノハラさんを振り返った。
「勝手な真似をするな!収録は中断だ!」
「続けてください!」
 僕は桜木さんを捉えた。ステージ中央に向かって彼が走り出す。
「やらせてください。必ずいい絵を撮ってみせます」
 上の決定など待っていられない。皆動いている    生きているのだから。
 由加が、足元のモニタに視線を落とした。
 見てろよ。
「2カメ中央の人達。1カメもっとアリスさんに寄って」
 有栖川先生が火村さんをハリセンで張り飛ばし、長身の男がおかっぱの女を引き寄せてかばい、EMCメンバーがアリスさんを取り囲み……
 ……笑えてきた。
 何がおかしい訳でもない。ただ、顔が笑い出す。
 この、わくわくする感じ、自信が全身に満ちてくる感覚。
 君さえいれば    
 桜木さんが騒ぎの中でマイクを掴んだ。急いで彼の表情を捉える。
「ノハラ!」
 呼ばれたノハラさんは彼を見た。そちらに向いているカメラはない。どうするか。
「君が必要なんだ」
 スタジオに響く声に、皆ぴたりと静まった。
「よし、1カメ2カメそのまま寄って。顔だ」
 カメラをノハラさんに向けようとすると、桜木さんが彼女に駆け寄ってゆく。ならば彼を追うだけでいい。二人がフレーム一杯に収まった。「よし」
 彼の背中が彼女を隠した。背を丸めて    キス。
 その背が退くと、目を閉じたノハラさんの顔。もっとアップで……
 ゆっくりと開いた彼女の目から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「やった!」
 思わずカメラから左手を離してぐっと拳を握った。全身で弾みたくなる手応えに軽く膝が曲がる。
 ステージを呆然と見守っていた観客がわあっと歓声を上げた。嵐のような拍手。
 横のモニタには、1カメ、嬉しそうに頬を染めて手を叩くアリスさんと、驚いている火村さん、微笑む有栖川先生。そして2カメはEMCメンバーが思い思いの表情を見せ、その後ろではロングヘアの女が両腕を高く伸ばして喜び、あとの二人は顔を見合わせ、微笑んでいた。
 彼らが見つめているのは    ノハラさんをそっと抱きしめた桜木さんの穏やかな笑みと、彼の胸に顔を埋めて泣く彼女の震える背中だった。
 古田がニコニコと前に出て「仲直り出来て良かったね。拍手」と観客を促し、歓声と拍手はさらに大きくなった。
 調整室のマイクが入るノイズに次いで、溜息がスタジオに響いた。
「………OKです!お疲れさまでした!」
「ありがとうございました!」
 誰にともなく    いや、インカムを通じてディレクターに言ったのだが、僕は両膝に手を突いて頭を下げた。体を起こして、すっかり汗で濡れた前髪を両手で掻き上げると、そこに    
 彼女がいた。
 涙で頬を濡らして、満面の笑顔で、ステージ上の人々に拍手を送っている。
 そうして僕を振り仰ぎ、由加は「良かったね諒介」と頬を拭って言った。
     最高の気分だ。
 僕は両手の親指と人差し指で四角を作って、そのフレーム越しに彼女を見た。
 僕のカメラに、彼女は照れくさそうに肩をすくめて「どうしたの?」と尋ねた。僕はフレームを壊して、その手を背中の後ろに回した。
「こうしたい気分だった」




MYSTERY WRITER

「なあーんやおまえ……ええとこなかったな」
「うるさい」
 私がクッと笑うと、火村は憮然とネクタイを緩めた。番組収録後の控え室で、火村は長椅子に腰を下ろしてがくりと背中を丸めた。
「何でみんな邪魔をするんだ……」
 その時、ノックの音がして扉が開いた。「お疲れさまでした」と、スタッフTシャツを着た黒縁眼鏡の青年が火村に声を掛ける。その後に和服姿の小柄な女性と、火村よりも大きな青年が続いて入って来た。
 ……これまた落差の激しいデコボコトリオやな。
 火村は目だけ上げて「何だ、いずみーずか」と肩を落とした。アリス嬢かと期待したのだろう。
「いずみーず?」
「和泉君と泉さん」
「こちらは友人の澤田君です。有栖川先生のファンで。紹介してください」
「澤田です。いつも楽しみに読ませていただいてます」
と差し出された手に応えて握手した。
「先生がいらっしゃると知っていれば色紙くらい持ってきたのに」
「あ、ほんならそのTシャツにサインしましょう」
 私はサインペンを取り出してTシャツの裾にきゅっきゅっと書いた。澤田君は「わあ!ありがとうございます!」と嬉しそうに言って、私は少々照れくさかった。読者にお目にかかるのは、何度経験しても気恥ずかしいものだ。
「良かったな澤田。大事にしろよそのTシャツ」
「フフ、もう家宝だねそのTシャツ」
「………」
 和泉君と着替えを済ませた古田君に両脇から肩を叩かれ、澤田君は笑顔のまま固まった。
「火村先生、由加は先生のプロポーズに感動して泣いてましたよ」
と、和泉君は両手を腰に当てて体を折り、火村の顔を覗き込むようにして言った。火村は「えっ」と顔を上げ、赤くなって泉さんを見た。
「…………悪いが俺はアリス以外の女性とは」
「誰もそんな事言うてへんやろッ!!」すぱーんっ。
 泉さんもこれにはさすがに赤面して、
「感動的でしたよ?結局勝敗つかなかったけど…。先生も桜木さんも素敵でした」
「えっ……」
 にっこりと笑って言う泉さんに、火村は真剣な面持ちの顔を近づけた。今にもキスなどしてしまいそうな距離に、彼女は耳まで真っ赤になった。
「………泉さん。具体的に……どの辺が……良かったんだろうか」
「泉ちゃんは箸が転んでも泣くぴーぴーさんなんですよ〜」
 古田君がにこやかに、火村の額を掌でぐーっと押して戻した。
「矢島部長に、今回の契約はなしにしましょうって言おうねえ。今後もずーっとねえ」
 うんうん、と澤田君が頷いた。
「やっぱり古田さん怒ってたんだ」
「てゆーか今回でこの番組打ち切りになるでしょう。プロデューサーはクビかなあ?」
「裏で手ェ回す気やな古田」
「ああ。地蔵にされた恨みは深いぞ」
 古田君の後ろで、和泉君と澤田君がぼそぼそと話していた。
 火村は「お疲れのところをすみませんでした」と帰ろうとする泉さんの手をぎゅっと握って引っ張った。
「あのっ!具体的に詳しく!教えてくれ泉さん!」
 彼女は「ひゃっ」と転んで火村の胸に倒れ込んだ。
「……俺達まだ仕事ありますんで!」
「すんませんなあ火村さん」
 和泉君は火村を羽交い締めにし、澤田君が泉さんの肩に手を回して引き寄せて、二人を引き剥がした。泉さんは振り返り、「…あの…」と火村を見た。
「桜木さんもそうでしたけど、火村先生も、一所懸命なところが格好良かったですよ?何かにひたむきになってる人って素敵だと思います」
「………」
 泉さんは「あ、やだな」と真っ赤になって笑い、古田君を振り向いた。
「古田さんも司会、大変だったのに頑張ってて、すっごく格好良かったよ」
「フフフ。ありがとねえ。僕、衣装返しに行くからそこまで一緒に行こう。帰りはカニ食べようか」
「うんうん!カニー!」
 二人はカニカニ言いながら出ていった。
「あのー……俺らも頑張ってたんですがー……」
「それより今の一言はまずいだろう」
 彼らはゆーっくりと火村を振り返った。火村は一人でぶつぶつと言っている。
「……そうか……。一所懸命でひたむきなところが……」
「泉さん、余計なこと言うてくれはりましたな……」
 私が脱力して呟くと、二人は「申し訳ありません」と頭を下げた。

   *   *   *

 テレビ局のロビーを抜けて、自動ドアが開くと、さあっと涼しい風が私達を包んだ。スタジオの熱気がまだ体のどこかに残っているようだ。「ええ風やな」と振り返ると、彼女は「もうすっかり秋ですね」と答えた。
 火村の隣にいるのは、アリス嬢。
 EMCのメンバーは気を利かせて、彼らだけで食事に出かけて行った。今夜は番組スタッフが用意してくれたホテルに泊まり、明日は皆でどこかへ遊びに行くそうだ。
「明日も私達と一緒なんだから、夕飯くらいは先生と行けば?」
 マリアさんはちょっと拗ねたような、照れたような、そんな口調でアリスさんに勧めた。そして「アリス先生、この暴走特急しっかり見張っててくださいね!」と私に念を押した。私は「まかせとき」と、ハリセンを掌でぱんぱんと打って笑った。
「……そのハリセンを担いで歩くのはやめろ。恥ずかしい」
 すぱーんっ!
「おまえに恥を諭されたないッ!」
「アリス先生、公道ではちょっと恥ずかしいです……」
「……ああ、すまんなアリスちゃん。このアホのせいで俺までおかしなるわ」
 私はハリセンをするするっとズボンのポケットに収めた。それを見た火村が「おまえはドラえもんか」と呟いた。
 この前上京した折に担当編集者と食事をした店がテレビ局から近いのを思い出して、そこへ行くことにした。途中、大きな公園を抜けてゆく。大通りを行き交う車の音が遠くなり、代わって虫の音が辺りに満ちた。ふわりと風が吹く。いい季節になった。
「…アリス。寒いのか?」
 火村の声に後ろを振り返る。アリスさんは「ちょっと冷えますね」と軽く腕をさすった。アリスが二人。しかし混乱する事はない。火村が気を配るのは彼女だけである。
 二人は立ち止まった。私も足を止めて二人を待つ。
 火村がジャケットを脱ぎ、アリスさんはバッグの中を探った。彼がジャケットを着せ掛けようとするのと、彼女が取り出したカーディガンに袖を通すのが同時だった。
「白ジャケットは、嫌です」
 にっこり。
 はっきりと物を言う。
 火村はがくりと俯いて、無言でジャケットを腕に掛けた。彼女やマリアさんから、あれ程言われ続けているのに、彼は白ジャケットを手放さない。番組で「男のこだわり」などと言っていたが、是非はともかく私は「彼を彼たらしめる物」の一つとして、白いジャケットがあると思っている。
 互いに譲らない。だがそこがいいのだろう。二人は今、並んでいる。
 私達は再び歩き出した。
「…アリス。結局…勝敗がつかなくて、沖縄にも連れて行ってやれなくて…」
「いいえ?良かったやないですか。……ノハラさん、ずっと泣きたかったんだと思います。だからあれが一番嬉しいですよ私は」
「……そうだな」火村の頷く気配。
 彼女を喜ばせたい。それなら充分だったろう。
 その瞬間を共に出来たというだけで。
「でも先生?……いっつも言うてますよね?」
 私はまた彼らを振り向いた。先生が二人。少し混乱するが、彼女の視線は火村に向けられていた。
「人前であんな事、恥ずかしいからやめてください。みんなびっくりしてはったやないですか」
「アリスちゃん、よう辛抱したなあ。あーんな衆人環視の中で抱きつかれて。普通なら怒るで」
「だって…。ああいう番組やし…。みんなが怒ってたから。私まで怒ったら、先生立場なくすでしょう?」
「………アリス……俺のために」
 火村がぐいと彼女を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
 私はポケットからするっとハリセンを取り出し「どーぞ」と差し出した。アリスさんは彼の腕の下から手を伸ばしてそれを受け取ると、
 すっぱーん!!
「それが恥ずかしい言うてるやないですか!!」
 アリスさんは赤面し、目を潤ませている。しかし何度言っても火村が懲りないのは。「話が違うじゃないか、泉さん」という彼の呟きに、彼女は「……由加さんがどうかしたんですか」と彼の顔を覗き込んだ。
「ああ、さっき控え室で会って」
「会わはったんですか?いいなあ、ずるい!」
「ずるいって……向こうから訪ねて来たんだぜ?」
「だって私、由加さんと一言も喋ってへんのに、今日。不公平です」
「不公平って……」と絶句する火村がおかしくて、私は小さく噴き出した。
 泉さんをケーキのように半分に切って分けられる訳ではあるまいに。
 そんな事を言いたげに彼女を見る。不可解な論理とむくれた顔に戸惑っている。手の焼けるミステリィ。だからこそ解いてみたいのだろう。
 私が「泉さんは火村のプロポーズに感動して泣いたんやって」と言うと、アリスさんは「……………嘘」と間を置いて言った。そして、もと来た道を振り返っていた彼女の微かな呟きがふわりと風に乗って私の耳に届いたが、火村には聞こえなかったようだ。
「……やっぱり、似てるのかなあ……」
「俺だって本当は恥ずかしいんだぜ」
 ふいに火村が言った。私の方も、彼女の方も見ていない。
「だが何をどう言えば……。何を言っても違う気がして」
 そう    なのだろう。彼の戸惑いを見れば、判る。
 どんな言葉も無力に思える瞬間がある。
「勿論、嘘を言っている訳じゃない。いつも思った通りに言ってるんだ。それでも、何かが違う……足りない気がして、言わずにいられないんだ」
 私は彼の声を背にして俯き、自分の爪先を見た。
 その焦燥を、私はよく知っている。
 何かが違う。何かが足りない。この思いを全て伝えるにはどれだけの言葉を並べればいいのだろう。本当は、伝えきれないと知っていて。
 だから    物語は生まれ続ける。
 言い尽くせない思いのために。
 地面を見ていた私は、彼らに気づかれぬように、ふっと笑った。
 街灯が落とした彼の影に彼女の影が近づき、軽く背伸びをして、一瞬、ひとつの影になった。
 ………ほら、こんなふうに。
 言葉はなくても心は満ちてゆく。彼にはアリス    君さえいれば。

「君さえいれば」 佐倉蒼葉 2000.7.30

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